吉野ヶ里遺跡で復元された建物は、
本当に弥生時代に存在したものなのか
「吉野ヶ里遺跡などでも、巨大な見世物的施設をつくることがは
やっているが、復元されたような建物が確かに弥生時代にあった
といえるのか、ぼくには答えられません。考古学でわかるのは建
物の地下に食い込んだ部分だけですから、あとは推定にすぎませ
ん。昭和三十年代、四十年代の文化庁は、~史跡はできるかぎり
手を加えないで、自然の状態のまま残すということに徹底していた。
宮崎県の西都原古墳群に行けばわかりますが、博物館は谷間の
目立たないところに建てている。だからあそこでは、古墳時代の雰
囲気に浸ることができる。それが原則だったのです。
十五年ぐらい前、文化庁の若い技師が「西都原でも県会議員など
から、いろいろ施設をつくれとの要望が出てきますが、史跡というの
はできるだけ手を加えないところに値打ちがあるんです」としゃべって
いた。文化庁にもしっかりした人がいるなと、安心していたのですが、
日本が不況に落ち込んで、お金をつぎ込んで、学問的に確かな根拠
に基づいているとはいえない見世物的な施設を、どんどんつくるように
変わってしまった。」
「平城京の地下にトンネルを掘って京奈良道路を通す計画が、皆が
知らないうちにいつのまにか進んでいることです。~考古学協会をは
じめとする学会には何の事前連絡もなく決められてしまっている。おそ
らく官僚のトップクラスだけで決定したものだとにらんでいます。
町人学者の精神で、ただひたすら好きだからということで取り組む者
が多数だった考古学が、いつの間にかその魂を失い、官僚の独走す
るようになってしまった。いやな時代になったものです。」
「ぼくの到達点の一つは、“考古学は地域に勇気を与える” ということ
です。そのように考え、ぼくは、関東学や東海学の創造に励んでいます。
若い研究者の積極的な参加をのぞんでやみません。」