昨日保己一忌のことを書く時、開いた歳時記の同じ頁に 「白雄忌」 があ
りました。 「陰暦九月一三日。江戸中興俳人、加舎白雄(かやしらお)の忌日。
~元文三年(1738)、信州上田藩士加舎吉享の次男として江戸深川で出生、
~寛政三年(1791)没、五四歳」。
以前もこのブログで取り上げたような気がしますが、我が故郷・上田の俳人
となれば見過ごすわけにはいきません、お付き合い下さい。
別の歳時記に「今も信州上田では忌日法要が行なわれている」とありますか
ら、http://www.ueda.ne.jp/~sirao/(加舎白雄顕彰保存会のHP)をのぞ
きましたら、「1999年12月9日更新」のままのようです、さて、今日は?
それはとも角として、白雄について少し書きます、といってもkaeruの見識で
はありません。ただ同郷の俳人だ、ということでいろいろ目移りをさせているだけ
です。ここではこれも同郷の俳人・矢島渚男さんの 『白雄の秀句』(講談社学芸
文庫) に寄りかかっています。
上田の保存会HPに書かれていますように、白雄は「天明中興の五傑の一人」
蕪村・暁台・蘭更・白雄・蓼太ということですが、この人々を正岡子規がどう評価した
か、がかなり問題になるのです。 最初のころ(1899年・M32)は「白雄を二位にあ
げていることが注目されよう」 としていたのが、「その後、子規は白雄を推賞するこ
とをしなかったばかりか、むしろ否定的評価を下すにいたっている。それはなぜか」
と矢島さんの筆は続くのですが、この子規の評価が「加舎白雄は不当に閑却されて
きた俳人である」、と『白雄の秀句』 の 「まえがき」 の冒頭に記される元になります。
そして子規につづき、虚子の「俳諧史評価は投げやりと言わざるを得ない」あり様
で、子規・虚子の「評価は、多くの鑑識力に欠ける俳諧史家たちに決定的に作用し、
ほとんど無批判に盲従するという結果をもたらしたのであった」と、矢島さんは断じて
います。
この結論に「無批判に盲従する」という格好になりますが、今はその立場で白雄を
読んでみようと思っています。