千住を訪ねてみたいという思いのなかには、芭蕉とのつながりではない
ものがあります。 中学の国語だったかと思いますが、杉田玄白の 『蘭学
事始』 をあつかった文章で、 「小塚原に腑分を見たりし翌日、良沢が宅
に集りて……」 というところは今でも思い出されます。
その現場であった千住骨ケ原(小塚原)」の刑場跡が今は、荒川区南千
住の延命寺内だと案内には書かれています。 「芭蕉の縁」 で一緒に訪ね
てみましょう。
岩波文庫の 『蘭学事始』 の表紙に ≪福沢諭吉は友人とともに繰り返し、
『蘭学事始』 を読んだが、『ターヘル・アナトミア』 の原書を前に 「艪舵なき
船の大海に乗り出だせしが如く」 呆然とするばかりだったとある条に至るや、
常に感涙し無言に終ったという。蘭学創始にあずかった先人たちの苦闘の
記録は今も鮮烈な感動をよぶ」≫と記されています。
中学生という成長して止まない精神に、やはり 「感動」 を深く与えたのだと
思います。 その後、藤森成吉著 『近代日本の先駆者たち』 (新日本新書19
72年)で、「幕末三大事件=玄白の 『解体新書』 の訳業、シーボルト事件、
蛮社の獄=」の一つとして 「三事件ともまったく民間のエネルギーから起こり、
今日の日本の進展の実証を成すものである。 これは日本民族の誇りとして、
永久に忘れてはならない事件である」 という評価を知りました。
森浩一さんの逝去の記事から、「真理の追究と知識形成」 自体に価値をお
き、世間一般や時の権力の評価を脇に置く、ときにはそれに抗する 「町人学
者像」 に触れてきました。 時代を切り拓く者として在野でも公の立場でも、自
分の「真理追究と知識形成」 の評価基準をそれ自身に置き、名声・権力・金銭
に置かない姿勢が 「町人学者像」 でしょう。