葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

信繁 in 大坂 拾い読み ー 3 ー

2016-04-17 20:57:03 | 「真田丸」

    大地震は政治を変える。

   これは「熊本地震」のことではなく「天正大地震」のことです。人間社会も地球上の諸現象のひとつですから、大地震が地球上の諸事に大きな影響を与えると同じ様に政治上のことに影響します。

   当然のことながら今回の大地震も日本社会、その一つとして政治に大きな変化を生み出すでしょう。それはもう少し先の話で今夜は1586年1月18日に起こった大地震のことで、当時の暦でいえば天正十三年十一月二十九日ということです。この地震解説のWikipediaの最初の部分です。

   写真の説明にある「地滑り痕」「崩壊跡」は今回見る「痕・跡」そのものです。ちょうど430年前起きた自然現象が所は変わっているが同じ現象として痕跡を残しました。

   では政治上のこととは? 前回 ー2ー は天正十四年十月に【 家康は遂に上洛を果たし、大坂城で秀吉と対面し臣従の礼を取り、秀吉政権に従属することになった。】と始めましたが、この地震はその一年ほど前のことでした。

  家康の上洛を「遂に」と書かれているように、1年前の家康は石川数正出奔や第一次上田合戦の敗退などにより秀吉との開戦が近いと臨戦態勢を急いでいたというのです。

   平山さんによると、【ところが、十一月二十九日亥刻いのこく(午後十時頃)、内陸部を震源とする推定マグネチュード7.2~8.1の大地震が、関西、中部地方を中心とする地域を襲った。大規模な余震が三十日にも発生し、それは十二月二十三日まで続いたという。この地震は秀吉に深刻な打撃を与え、家康との即時開戦に踏み切ることが困難になった。秀吉は、家康打倒を目指す強硬策から一転して、上洛を促す融和策へと外交路線を変更するのである。】

   このあと紆余曲折があり、特に秀吉が妹旭姫を家康の正室として娶めあわせることで家康は臨戦態勢を解き上洛した、につながっていきます。

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熊本地震。

2016-04-15 23:51:09 | せいじの政治カフェ

   昨日熊本での地震を知った時はこれほどの被害になっているとは考えていませんでした。震度7という数値の意味することが直ぐに実感的になっていないということです。

   「3・11」の揺れを体験し現地へも行って津波と地震による被害の状況を見聞きして来ていても、更に神戸で支援活動を体験していてもです。自然の強さ深さ大きさに対していかに自分の認識が弱く浅く小さいものか。

「災害は忘れた頃やって来る」ではない「忘れないうちにやって来るのです」とか自分では言ってみても、やはり忘れているのです。あるいは忘れようとしているのです。

   今回の地震も起きるべき地域、活断層の上で起きているのです。神戸での経験を経て活断層のことを知っておこうと『日本の活断層』なる本を入手しておいたのですが、熊本の当地を見れば、

この図の「19」という数字=高野断層の右に「1937.1」と見えその下に「5.1」とあります。これはこの後の数字も入れて1937年1月27日にM(マグニチュード)5.1の地震があったことを示しています。同じように「21=白旗断層」の左の数字は1933年4月8日M4.8という意味です。

   今回の地震のMは6.5でしたから過去の地震よりかなり大きいものでした。それにしてもこの写真で見られる地震だけでも、1625年7月、1723年12月(番号6の左上)、1848年1月、1889年7月、1907年3月、1933年4月、1937年1月と7回の記録が見られます。今回を入れて約400年間に8回となり、50年に1回の割で起きているのです。

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「てんがらもん」212回 お題はよろしいように。

2016-04-14 21:57:51 | 「てんがらもんラジオ」

   今回から川柳の石神紅雀さんによる「川柳の時間」がはじまりました。ゲストとして石原夢修さんを迎えました。石原さんは紅雀さんに川柳の手解きを受けたひとです。番組はこちらで、「てんがらもん」212回  石原夢修さん  。

   前回紅雀さんが出られた時の番組(3月10日)のタイトルを「生きているから五・七・五」としました。それは川柳の魅力は手のひらを太陽にかざして見るように、生きていること自体を見つめ五七五で表現することにある、と感じたからです。

  五七五で表現すると言えば俳句も同じです、川柳と俳句の違いは?

  例えば俳句の入門書などには、これだけは手元に何時でもあるようにとして、①句帳、②歳時記、③国語辞典などがあげられています。俳句の約束ごとのひとつに季語があり、それを理解するために歳時記があります。では川柳ではどうでしょう、多分①と③だけでしょう。

  この歳時記に代わるものは何だろうと思うと人生そのものを詰め込んだもの、それは作り手自身だと思うのです。自分自身を五七五という口調で表現してみると思わぬ発見があります。その発見をお互いが出しあうと盛り上がります。この番組を視聴されると分かってもらえますが、終始盛り上がっています、それは「発見」への共感です。

  私は今まで「俳句を少々と」いう感じでやってきて川柳を横目で見てきたのですが、川柳の方から正面に回ってきたので正視したらなかなか魅力的で引かれはじめ、これからもよろしくお願いします、という感じです。

最後に、紅雀さんの「ないしょ」話をお聞きください。

こちらです、http://synjyoko.exblog.jp 。

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コーヒーを飲みながら……。

2016-04-13 22:42:28 | せいじの政治カフェ

   色々検索をしていましたらこんな写真が目にはいりました。

写真の下にはこんな文字が……。

   30分余の動画でしたが聴き取れませんでした。

「くらしとせいじカフェ」は「暮らしと政治カフェ」でしょう。どうやらお互いが飲みものも食べ物も持ち寄り仲間の家に集まり、ワイガヤ政治談義という感じです。泣き出すような赤ん坊はいないようですが、子供連れですから、そんなに長時間ではないのでしょう。録画の前半30分余ですから全部で1時間前後でしょうか。

そこで今日の「しんぶん赤旗」の一面です。

   衆議院補欠選挙の北海道5区の動きと参議院選での統一候補の動きです。ふたつの動きの共通するのは「市民が政治を変える」ということです。その市民と「カフェ」の写真がダブります。昨日紹介しました志位さんの報告のなかに「自分たちの政治だから、自分たちで担う」「自分たちの代表だから、自分たちで後押しする」などとの声について触れられています。

  全体的には「日本の歴史で初めての市民革命的な動き」とも言ってます。するとこのご婦人を中心とした子供連れの「ワイガヤ」こそ「革命」のひとつの姿だと言えるでしょう、歴史的写真です、そして日本の各地に広がっているでしょう。

   そんな御婦人の姿に学びたく「暮し・政治・選挙」というカテゴリーを「せいじの政治カフェ」に変えました。 

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信繁 in 大坂 ー拾い読み 2ー

2016-04-12 23:13:18 | 「真田丸」

   昨日の続きです。説明はすべて平山優さんの『真田信繁』に拠りますが「拾い読み」ですので関連部分を全文写してはいません。ただし書かれていないことはつぶやいてはいません。

【 天正十四年(1586)十月、徳川家康が遂に上洛を果たし、大坂城で秀吉と対面し臣従の礼を取り、秀吉政権に従属することになった。

  天正十五年一月四日、秀吉は上杉景勝に書状を送り、真田昌幸の赦免を正式に通達、昌幸に上洛をさせるよう指示した。昌幸は上洛し秀吉に謁見し、秀吉は昌幸に対して家康の与力大名となるよう命じた。
   三月十八日、昌幸は帰路駿府城に入り家康に出仕した。ここに昌幸は、上田・真田領と沼田・吾妻領を安堵され、豊臣大名として認定されることになった。武田氏滅亡から五年、遂に昌幸は大名となり、自立を果たした。

  『長國寺殿御事蹟稿』によれば、上洛の時、昌幸は息子信幸・信繁を伴っていたという。これは確実な記録では確認できないが、事実の可能性が高い。この時、信幸は父昌幸とともに帰国したが、信繁はそのまま上方に人質として留め置かれたのではなかろうか。

   信繁の人質生活がいつからはじまったか、諸書によってまちまちで天正十三年、十七年などあるが、いずれも事実ではなかろう。まだ決め手に欠けるが、信繁が秀吉の人質となったのは、天正十五年の昌幸上洛の時と考えておきたい。
   上杉景勝の人質であった信繁を、昌幸が秘かに取り返し、勝手に秀吉のもとへ送ったため、景勝が怒ったとの説があるが、事実ではない。すでに秀吉と景勝は、昌幸を家康の与力大名にすること、すなわち真田氏の上杉氏従属は解消されることになっていたのであり、昌幸上洛とその帰途の家康への出仕によって、真田氏は上杉氏から独立したといえるからである。
   信繁はこの前後に、元服したと考えられる。仮名は源次郎、信繁の諱いみなは、武田信玄の実弟天廐てんきゅう信繁に由来するという。

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参議院選の先へ……。

2016-04-12 20:58:29 | せいじの政治カフェ

  10日の「神奈川新聞」です。「もし野党一本化で戦わば」の試算がでていました。前回の衆議院選では53議席であったものが113議席に、といいます。比例代表の議席を加えれば与党の3分の2は困難になるとしています。  

   10日には日本共産党の中央委員会総会が開かれて、参議院選に臨む方針が論議され意思統一がはかられました。注目される参議院の一人区での野党統一候補の実現状況は、志位委員長の報告によると32選挙区中12選挙区で候補者が決まって、なお十数選挙区で協議がすすめられているとのことです。その12選挙区は青森、宮城、栃木、山梨、長野、鳥取・島根、山口、徳島・高知、熊本、長崎、宮崎、沖縄です。

  この共同にあたって野党で確認されたことは、

1、安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を共通の目標とする。

2、安倍政権の打倒をめざす。

3、国政選挙で現与党およびその補完勢力を少数に追い込む。

4、国会における対応や国政選挙などあらゆる場面でできる限りの協力を行う。

以上です。

   それを受けての衆議院選小選挙区での協力協議については、日本共産党、旧維新の党、社民党、生活の党の4党では一致が確認されているが、民進党は「協議に入れない」との態度だと報告されました。  

   今回の野党共闘は、戦争法に反対しその廃止を求める国民的運動の高まりをうけて実現されたもので、日本の歴史のなかでもはじめての取り組みです。ですから野党共闘にとどまらず、野党+市民連合という陣営です。志位さんの記者会見でも話されていましたが、参議院選での候補者の選定過程で次の段階ー衆議院小選挙区に向けても話が交わされているとのことです。

   参議院選挙に向けての戦いの前進の中で、野党は共闘を!という声はさらに高まるでしょう。 

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信繁 in 大坂 ー拾い読み1ー。

2016-04-11 22:29:19 | 「真田丸」

  「真田丸  大坂編」で全50回中第14回で前中後と分ければ、中編に入り、「地方編」から「中央編」に移り「完結編」の大坂の陣への大きな伏線が引かれました。

   信繁の大坂入りに至るまでの史実を例によって平井さんの『真田信繁』から拾い読みをしておきます。

《 天正十四年六月に上杉景勝が上洛した際、秀吉は景勝と相談し、真田昌幸を家康の与力に編入することを決定していた。秀吉は同じく、木曽義昌・小笠原貞慶も家康の与力大名とすることとした。

 義昌、貞慶は上洛した) そこで秀吉は、昌幸にも上洛を促した。だが昌幸はこれを拒否、ならば人質をとの秀吉の要請も拒否。

   なぜ昌幸は秀吉の要請を拒否続けたのか。沼田領が北条軍の攻撃を受けており上田を留守にできなかったこと、秀吉に沼田・吾妻領を取り上げられると危惧していたと考えられます。沼田領問題で秀吉の安堵の確約と徳川・北条両氏に対する停戦命令がない限り昌幸は上洛できないと考えていたのでしょう。

   秀吉はこれを大いに怒り、昌幸を「表裏比興之者ひょうりひきょうのもの」と指弾して、八月三日、昌幸の庇護者上杉景勝に対し家康に命じて成敗すると報じた。そして真田領に在陣する上杉軍に昌幸の支援をさせぬようにと言い渡したのである。

   八月六日、秀吉は家康に真田昌幸成敗を命じた。史料でみる限り、秀吉は本気で真田昌幸を潰すつもりだったらしい。危機感を覚えた昌幸は上杉景勝に秀吉への取りなしを必死に依頼した。恐らく景勝の取り成しが奏功したのであろう、八月七日真田成敗の意向を覆し家康に真田昌幸との問題の仲裁をすると伝え、家康も真田討伐を中止した。

   秀吉が真田成敗を中止した理由は、①秀吉は、真田問題を利用して家康との信頼関係を構築し、家康に上洛を促した、②真田討伐を家康に実行させれば、東国における徳川・北条氏の力が増し、軍事バランスが狂う、③真田を対徳川、北条の緩衝地帯とすることの方が政治的・軍事的にメリットが大きい、④真田昌幸を従属下に置く上杉景勝の説得工作の成果、⑤景勝の面子を考慮した秀吉の配慮、などが考えられるであろう。》

  このあと「豊臣政権下の真田信繁」となります。その「真田昌幸上洛す」以降はこの次にします。

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臨時休ブログ。

2016-04-10 22:10:34 | どこまで続くかこのブログ

   「真田丸」を観て「つぶやき」の前に関連のものにつなげようとしたら下の様な有様になりました、朝から通信が遅くなりイライラしていたのですが。

ということで、通信の所為にして今夜は休みです。

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葉山町議員・細川問題一区切り。

2016-04-09 23:35:58 | 葉山そして人

   昨日議会事務局より「細川慎一議員の覚醒剤所持・使用等に関する調査特別委員会審査報告」が公表されました。全文は、

http://www.town.hayama.lg.jp/gikai/info/160408_info.pdf   で見られます。

主要な内容は、

にあるかと思われます。

   これに関しては今後「法的手続き」に移ることです。それを想定して議会も5月26日まで会期を延長しています。それはそれとして検証されなければならないのは「議会だより 臨時号」のこの部分です。

  多くの町民からの声は「除名を」だったが、「最高裁の判決、行政実例を見ても難しい」との議会側の判断です。近く町民有志による「集い」も予定されていますが、そこでもおおいに論議されると思います。

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iPhoneそしてアイパッド。

2016-04-08 22:38:19 | どこまで続くかこのブログ

iPhoneについてのこんな話。話の出処は『還暦からの電脳事始(デジタルことはじめ)』(高橋源一郎著)です、面白い本です。

【 1歳半のお子さんが、ふと父親のiPhoneに手を伸ばしたのです。まだほとんど意味のある言葉を話せないのに、左手にそれを持ち、右手の人差し指でキーをスライドさせて、こともなげにロックを解除させました。唖然として見ていると、そのままアプリ一覧をスクロールして、iPhoneアプリを立ち上げ、自分が映っているビデオや、家族の写真を拾い出してきて、こちらを見てにっこり。画面の3分の1ほどしかない小さな指が、右に左に写真をスルーする様は圧巻です。それに飽きると、別なメディアアート系のアプリを立ち上げて、父親に見せたりしていました。特に教わる事もなく、見よう見まねで触っているうちに使いこなせたのだとか、別のケータイは使えないそうです。】

「唖然とした」というのは工業デザイナーの山中俊治さんという方です。

高橋さんがこの後に、

【 iPhoneやiPadのすごさは「使用説明書なんか読まなくてもいい」ということだろう。すべては(「ことば」ではなく)「デザイン」でやってしまうのである。「ことば」の世界は、共通ではない。そのすべてで説明書をつくらなきゃならないとしたらたいへんだ。それに、世界には、文字を読めない人も多い。】

と書かれたいます。

   そういえば私もiPadを入手した時「使用説明書」はなかったし、それが不自由だとも思いませんでした。でも基本的が機能は使えはじめるともっと使いこなせたらと欲も出てきます。

それに昔の電脳製品についていた分厚い「説明書」が頼り甲斐があるかに思われ、こんな本を買ってしまいました。

   それで使いこなせているかというとそうなっていないのです。幼児の才能に追いつけません。

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