kaeruのつぶやき

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第十六章 パリ万国博覧会

2018-01-17 21:51:11 | 『乱』と「西郷どん」

   14日のブログで1867年のパリ万国博覧会に関して、Wikipedia の記事を紹介しました、その時の写真です。

   中央の椅子の人が将軍慶喜の弟の昭武(数え十五歳)、日本大君の親弟として使節になった人です。正式名は〈日本大君親弟従四位下左近衛権少将徳川民部大輔源昭武〉であった、と『乱』に書かれています。

   一行が横浜を出港したのは慶応三年一月十一日(1867年2月15日)フランス郵船アルフェ号、それは一ヶ月前の十二月八日(1867年1月13日)に横浜に入港したブリュネたちフランス軍事顧問団を乗せてきた船でした。

『乱』では一行が出発したあとの「突然事」をこう記しています。

【 ところが、昭武の一行が出発して四ヵ月たった慶応三年五月中旬に、突然降って湧いた、という感じで、外国奉行栗本安芸守にフランス渡航の内命が下ったのである。それはいままでの日仏関係に、ある暗翳(かげり)の射したことを予感させた。

   鋤雲(昭武)をフランスに派遣してほしいと慶喜に進言したのはロッシュ(フランス公使)その人であった。その直接の動機となったのは、昭武の一行がパリの万国博覧会において薩摩藩の工作により著しく幕威を傷つけられ、国際的信用を失墜しているという新聞報道である。】

14日に紹介したこの部分です、

『乱』の続きを要約しますと、

「当時、パリに日本通のフランス貴族ということで頼りにされたモンブランという伯爵がいました。そのうちパリの社交界で評判がよくないと次第に敬遠されたのです。このことを根に持って薩摩藩の顧問となり幕府に報復を図ったのでした。

   薩摩藩主を〈薩摩大守・琉球国王〉と称して幕府とは別の会場を獲得し、フランスの新聞に、徳川幕府は日本の統一支配者ではなく、薩摩藩や肥前藩(も出品した)と対等の地位に立つ一封建大名にすぎなず、天皇だけが日本の君主である、と宣伝したのでした。

   更に、〈薩摩琉球国勲章〉を作って社交界にバラ蒔き、勲章好きのフランス人を喜ばせるという芸の細かさであった」と綱淵さんの筆です。

【使節団の一行が憤慨したのはいうまでもない。】と続きますが、紆余曲折を経ながら、

第十六章の最後は、

「万国博覧会における日本の評判は極めて好かった。日本の出品物においては、養蚕・漆器・工芸品・和紙にたいして第1等の大賞牌(グランプリ)が贈られるなどヨーロッパで広がりはじめたジャポニスム(日本趣味)人気を煽った、と続けて、

【 はじめはウンザリすることも多かった徳川昭武の一行も、ナポレオン三世の謁見式が終わったのちは、皇帝が昭武を可愛がること一方でなく、……、幕府にたいする嫌がらせや中傷記事を載せていた新聞もおのずとその筆を収めて、〈日本公子の名巴里の満都に喧伝せられ、さしも紛擾の種を蒔きたる薩摩の使節もモンブランも、博覧会の未だ畢らざる中に早くも其蹤跡を晦ませり〉】

と『徳川慶喜公伝』の内容を記しています。


新年会同じ顔ぶれ初句会

2018-01-16 21:24:55 | kaeruの五七五

どれが誰やらは省略しますが、この二枚は初句会のあとの新年会の席です。

 

 こうなる前に初句会を済ませました。

初句会で季語として初句会を詠み込んだ句をだしたのは私だけでした。

    志詠みこむ刻(とき)や初句会

は師の推敲によって

    志詠みこむ一句初句会

になりました。

    俗であること面白し初句会

も同じく

    俗であることを良しとす初句会

に……。


『角川 俳句大歳時記 新年』より

生涯の句なり君とりてよ初句会      山口青邨

七人の敵なつかしき初句会            松倉ゆずる

まづまづの一句を得たる初句会       塗師康廣


角川春樹 『現代俳句歳時記 新年』より

松とれし町の雨来て初句会             杉田久女

厨より妻も出句や初句会                宮下翠舟

みづうみを見て来し旅や初句会        角川春樹


初句会の前に……。

2018-01-15 23:58:51 | kaeruの五七五

   明日は初句会です、との確認のメールで新たな気持ちになって、今年俳句関係で読みたいこの本の紹介です。

このところ『乱(らん)』と「西郷どん」に触れつつ明治を考える、まではいかないがのぞいています。それは明治という時代の「大変革」の内容を知りたいからで、変更の方向にそって今でも動いているものは何か、を知りたいからです。

   併せてこの本のいう「戦後」はまさに我が人生のことですから、一層知らねばならないことです。

「戦後」のついた「論争史」では、

があります。先の本が俳句分野であり、こちらは政治・社会分野のものですが、ほぼ同時代を対象にしています。

   最近の政治社会傾向が「戦後から新たな戦前に」動きつつある時、トータルとしての政治の反動化戦争への傾きに警告を発し、反対運動を広げる重要性は論を待ちません。それと併せて、個別分野で「戦前化」に警告を発し平和への姿勢を確立しなければなりません。現状への批判的視野視点は「過去=歴史」への科学的客観的認識によって得られるものでしょう。

なにか大層な事を言い出しました、要するに明治維新は我が身の体験の中にないが「戦後」は我が事なのだから、自分の目で読めるうちに読んでおきたい、というだけの話です。


ブリュネ砲兵中尉等、仏軍事顧問団来日。

2018-01-14 19:42:12 | 『乱』と「西郷どん」

   ブリュネがメキシコ戦線から帰国したのは1864年10月でした。

『乱』に曰く、

【帰国と同時にレジオンドヌール騎士章受勲者(勳五等)に叙せられ、予備軍に編入された。この段階ではまだ、自分がやがて軍事顧問団の一員として日本へ派遣されることなど、夢にも考えてはいなかったのはいうまでもない。】

   その時点で、彼は26歳と9ヶ月。

   そのブリュネがシャノワンヌ大尉を指揮官とするフランス軍事顧問団の一員として横浜に着いたのは、1867年1月13日(慶応二年十二月八日) 、総勢15名でした。

   『乱』の「第十章  軍事顧問団来日」にはこう書かれています。

フランスの絵入り雑誌「ル・モンド・イリュストレ」1867年2月12日号(和暦・慶応三年一月八日)に、十五名のフランス軍人を描いたペン画の挿絵が掲載されている。

   この絵は、それに付されているフランス語の説明文によると、当時のフランス近衛砲兵隊倶楽部にあった写真に拠って描かれたもので……】

 

こう書かれていると、その絵なり写真を見たくなります。

これは「「ル・モンド・イリュストレ」1867年2月12日号」で検索したものです。残念ながらこの中には15名の軍人たちの姿はありません。67,000円出せばご披露出来るのでしょうが……。


   パリ第2回万国博覧会が紹介されていますが、Wikipedia に面白いことが書かれていましたのでブリュネと離れますが、

「日本国」とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」として幕府とは別に展示したことに、薩摩藩の意気込みを知ることが出来ます。


『乱』と「西郷どん」

2018-01-13 22:13:20 | 『乱』と「西郷どん」

『乱』は「敗者の側から歴史を凝視しようとする」作家・綱淵謙錠の姿勢の特色がよく出ている史伝文学であると、文芸評論家磯貝勝太郎氏の「解説」は既に紹介済みのことです。

これに加えて、同氏が次のように言われていることが今日のタイトルの説明になります。

  【海音寺潮五郎の史伝文学の代表作は、『西郷隆盛』である。このライフワークは作者の死によって未完に終わった。『乱』も綱淵謙錠の畢生の労作であり、未完の代表作となった。綱淵謙錠は海音寺潮五郎と同様、西郷隆盛の史伝を書くことが、かねてからの念願であった。西郷を書くことは。幕末維新史を書くことである。綱淵は敗者としての西郷を通して幕末維新の激動する時代を書くことなく逝った。晩年に近い時期から健康を害していたので、西郷隆盛の執筆を断念し、ブリュネを通して幕末維新の激動期を書き終えたかったのである。史伝の労作『乱(らん)』には、作者のそのような念願がこめられている。】

   作家・海音寺潮五郎については、Wikipedia .海音寺潮五郎

   大河ドラマ「西郷どん」は小吉からはじまった人間西郷隆盛の生涯を、人々から「西郷どん」と親しく呼ばれる由来に至るまで「愛をテーマ」にして描くものと思います。

   それは自ずから綱淵謙錠が書きたかった「史伝西郷隆盛」とも、海音寺潮五郎の未完の作になった『西郷隆盛』とも違った視点視角をもったものです。だからこそ「史伝西郷隆盛」と「西郷どん」を知ることが、よく言われる「西郷隆盛は謎である」との言葉にある「謎の深さ大きさ多彩さ」を実感することになります。この人物を通して日本の変革期を生きた人々の「謎」に魅力をおぼえることができると思います。

  更に付言すれば、21世紀の中ほどに向かう今日の日本社会、そればかりでなく世界全体が「明治維新期」にも通ずる変革期にあると思う私としては、このブログに新しく〈『乱』と「西郷どん」〉を加えた所以です。 


西郷どんという餅

2018-01-12 22:01:30 | 「てんがらもんラジオ」

二つのものをどうくっつけようか考えています。

ひとつは、

  餅のようにくっつきあって暮らそうね  

もう一つは、

「西郷どんはおモチのような人」

最初の「餅のように」は昨日の川柳教室での特選句、詠み手は鈴音さんです。この句を聞いた時浮かんできたのが下の「西郷どんはおモチ……」、これは昨年私のブログに載せた記事が頭にあったからです。

 

写真はドラマのシナリオを担当した中園ミホさんの記事です。

西郷どんがおモチのようだというのは、

「おモチを2個並べて焼くと、くっついて同化しちゃう。それぐらい近くにいる人の心に寄り添う人のようです。だから、男にも女にも愛されたし、特に弱い人に寄り添う人だったのではないでしょうか」

と話されています。

   両方にお餅があるのですが、それでくっつくかといえばそうはなりません。中園さんもいわれているように「焼くと、くっついてしまう」のですから、焼かないと、あるいは焼いても離れていてはくっつかない、のです。

さて、焼くとは熱を加えることです。

   鈴音さんの句については選者の石神さんも「素晴らしい発想 温かな句です」と評しているように句の中に熱がこもっています。「西郷どん」は原作も脚本も女性によって書かれてます。それだけ記事に見られる愛のスケールの大きさをどう表現してくれるか。

   西郷隆盛といえば「敬天愛人」ですが、この四文字の意味を愛情のスケールとして掴ませてもらえるか、楽しみです。

   こう呟いてくると、二つをくっつかせるものは愛情という炎であること、そしてその炎はやはり桜島の国・鹿児島らしい愛情の姿を示していると気づかされます。


写真の話の続き。

2018-01-10 21:37:49 | 『乱』と「西郷どん」

   昨日は徳川慶喜の写真を載せましたが、今日は『乱』から離れてもう一人の維新の立役者・島津斉彬の写真です、

これはWikipediaですが、同じものが『ブリタニカ』に出ていまして、こういう記事が載ってます。

 【 写真の渡来

   日本の写真の歴史は、嘉永元年(1848)の渡来に始まる。最初に輸入された写真はダゲレオタイプであり、銀板上に画像をつくるので、日本では銀板写真と呼ばれた。

最初に写真機具一式を入手したのは薩摩藩である。〜 日本人が撮影に成功した銀板写真は、ただ一点であるが現存している。】

として次に先ほどの写真が、

続けて、

【 実用としての写真は、安政年間に輸入された湿板写真に始る。現存する最古の湿板写真は、安政五(1858)年、島津斉彬がみずから幼い姫たちを撮影したと伝えられる『姫三人』である。】

 それがこれです、

やがて大河ドラマ「西郷どん」に登場するかも知れません。


終わりに「恐い写真」、

   これは夕方机の下に物が落ちてたのでもぐった時気付いたものです、暖房機を脇に動かしたら……。

   今日に焦げたものではなく、多分幾日前からパネル式の発熱機を机の下に入れた時でしょう。この発熱板はそう熱くならないし裏側には熱が出ないので注意が欠けていました。

   低温であっても長い間に熱がたまりほとんど発火状態に見えます。この部屋は殆ど私一人で過ごすので、改めて自戒の気持ちを込めてここに載せておきます。

  明日は身辺整理をして、目と注意が行き届く周辺にしなければと思っています。


徳川慶喜、スケッチと写真

2018-01-09 21:08:27 | 『乱』と「西郷どん」

  この写真は『乱』で紹介されているブリュネが徳川慶喜をスケッチしたものです。

これに関しては、

【 白地の着物に黒い羽織を着、厚手の生地に三葉葵の紋らしい模様を織り出した平袴を穿いた、いわば平服・立ち姿の慶喜を真正面から描いたものである。

   面白いのは、畳の上を草履ばきで歩いていることであり、背後に二人の近習らしい侍が随い、向かって右の侍は左手に将軍の佩刀を捧げている。そしてこの二人も草履ばきであるが、さらにそのうしろには何人かの侍が畳の上に手をついて平伏しているのである。

   サインは間違いなくブリュネであろうが、〜〈一八六五年五月一日〉という日付しか読みとれないのは残念である。

   しかし、一八六五年五月一日は慶応三年三月二十七日であるから、この慶喜像はフランス公使一行に内謁見を賜わった当日のスケッチであることが知られる。おそらく白書院に現れたときの慶喜を、ブリュネがその場で描いたものであろう。慶喜たちが畳の上で草履を穿いているのは。ロッシュたちが大礼服に靴のままで謁見室に案内されたからと思われる。】

さらに続けて、

【 このデッサンの上部左右に、人間の顔が二つ描かれている。一つは顔の左側、もう一つは右側であるが、あるいはこれは慶喜の横顔をスケッチしたものかもしれない。慶喜が平服を着ているのは、これが内謁見だったからであろう。

   これが日本人絵師ならそう簡単には描けそうもない将軍の似姿をブリュネに許したのも、外国使臣にたいする好意の現れとみてよいであろうか。とにかく、将軍慶喜をじかにスケッチした絵として、これは貴重なものである。】

と記しています。

この2年後の慶喜の写真がこれです、

この写真が誰の手によって写されたものか、紹介しているWikipedia には説明がありません。     


「史実」としての『乱』。

2018-01-08 21:30:41 | 『乱』と「西郷どん」

   この『乱』は歴史小説ではなく史伝文学の列に入るもので、主人公のブリュネをデュマの『三銃士』のダルタニャンに模しながらブリュネを縦横無尽に活躍させる大衆小説ではない、と「解説」に書かれています。

磯貝は「史伝の特色としては」と、

【文章の中に史料を引用し、史料そのものに歴史や史実を語らせるという実証的な手法をとっていること、逸話エピソードを引用し、その中にある史実を活かしていること、「わたくしは、正しいと考える」「筆者わたくしはそのように解釈している」などのように、作者が直接的に表現をおこなっていることなどがあげられる。】

と書き記しています。本のなかに何枚かの写真が刷り込まれているのは、その意味で興味を引かれます。すでに「スフィンクスを背にした池田使節団一行」は紹介しました。「スフィンクス」以外の写真はブリュネの描いたスケッチが多く、彼が「聡明かつ熱心な士官である」と同時に「デッサンの能力は抜群」であるという「史料」を裏付けています。

それでは、はじめてのブリュネのスケッチを、

これは、ナポレオン三世が中央アメリカにおける市場獲得の好機と見てイギリス、スペインと共にメキシコへ遠征軍を送った時、砲兵二等中尉として従軍していたブリュネの描いたものです。

   ブリュネのメキシコ出征は1863年8月30日から1864年6月23日までですが、この6月23日はマルセーユで池田使節団一行が日本への帰国をしようと便船を待っていた日付でもあります。


『乱』主人公登場の前に……。

2018-01-07 19:43:07 | 『乱』と「西郷どん」

『乱』は総頁691、第45章をもって頁を閉じています。昨日「解説」を読みましたら(書き手は文芸評論家磯貝勝太郎)、

【『乱』は、綱淵謙錠の歴史文学の集大成ともいうべき史伝である。惜しくも作者の死によって未完のままに終ってしまったが、足かけ十一年の長年月にわたり、病躯をおして執筆された労作だ。】

と書かれていたので残念な思いをしたのです。

この後、【この作品の魅力は、快男児ダルタニャンをほうふつさせる俠血の青年、ジュール・ブリュネが登場することである。と記されていましたので、

改めて帯のその部分を、

【風雲の幕末、軍事顧問団員として来日した仏人士官ブリュネは、滅びゆく幕府軍に身を投じ、遥か函館五稜郭まで戦い抜く……。

義に生きた男の〈俠血〉を軸に真っ向から維新史に挑む、】

とあります。

   池田筑後守一行がフランスを離れ、当初の予定を変更し急遽日本に帰ることになったのは、この本では60頁あたりですからブリュネの名前が出てくる84頁までにはかなり紆余曲折が記されています。

まずその60頁、

【元治元年(1864)七月十八日、池田使節団の突然の帰国は、幕府にとっては青天の霹靂であった。

   幕府はかれら一行が少なくとも三、四年はヨーロッパ諸国を歴訪して、時間を稼いでくれることを期待していた。国内の過激攘夷派の鉾先を躱す口実として、ぜひそうあってほしかったのである。それなのに、たった八ヶ月足らずで帰ってきたのであるから、周章狼狽した。】

   さらに具合の悪いことには、帰国したその日は京都で〈禁門の変〉が起きていたり、英仏米蘭の四国艦隊が長州藩砲撃に横浜を出港しようとするのを引き止め交渉をしている時でした。

   そういう状況の時、幕府が派遣した使節団が「これからは〈開国で行きましょう〉などという報告をしに戻ってきたことが知れたら、どんな騒動になるか……、と綱淵謙錠は書いています。

そして、池田一行には「このまましばらく上海なり香港なりに姿をひそめておれ」とか「せめて箱館へ足を伸ばして、当分影を隠していてくれ」と言われ続けます。

その時、突然、池田筑後守が官邸を飛び出し、馬で江戸へ向け駆け出したのです。

この辺のことを、綱淵の筆は『旧事諮問録』を引用して続けます、

【筑後守がだんだん焦れて来て、何としても将軍家に、御直に申上げなければならぬ、とにかく老中に逢わねばならぬと、私共が留めるのも振り切って、ただ一騎、入ってはならぬと留められている江戸表へ乗り込みましたが、イヤこの時は騒ぎでした。】

『旧事諮問録』を記した河田相模守と昨日の写真の河津伊豆守があとを追い、【ようよう池田の屋敷の近所で引止めることが出来ました。〜少し発狂の気味だったのです。】

   こうして池田使節団は気の毒な〈犠牲〉となって歴史の片隅に残るわけですが、この使節団とフランス政府の接触が、次の段階では強力な日仏提携のきっかけとなったのです。