14日のブログで1867年のパリ万国博覧会に関して、Wikipedia の記事を紹介しました、その時の写真です。
中央の椅子の人が将軍慶喜の弟の昭武(数え十五歳)、日本大君の親弟として使節になった人です。正式名は〈日本大君親弟従四位下左近衛権少将徳川民部大輔源昭武〉であった、と『乱』に書かれています。
一行が横浜を出港したのは慶応三年一月十一日(1867年2月15日)フランス郵船アルフェ号、それは一ヶ月前の十二月八日(1867年1月13日)に横浜に入港したブリュネたちフランス軍事顧問団を乗せてきた船でした。
『乱』では一行が出発したあとの「突然事」をこう記しています。
【 ところが、昭武の一行が出発して四ヵ月たった慶応三年五月中旬に、突然降って湧いた、という感じで、外国奉行栗本安芸守にフランス渡航の内命が下ったのである。それはいままでの日仏関係に、ある暗翳(かげり)の射したことを予感させた。
鋤雲(昭武)をフランスに派遣してほしいと慶喜に進言したのはロッシュ(フランス公使)その人であった。その直接の動機となったのは、昭武の一行がパリの万国博覧会において薩摩藩の工作により著しく幕威を傷つけられ、国際的信用を失墜しているという新聞報道である。】
14日に紹介したこの部分です、
『乱』の続きを要約しますと、
「当時、パリに日本通のフランス貴族ということで頼りにされたモンブランという伯爵がいました。そのうちパリの社交界で評判がよくないと次第に敬遠されたのです。このことを根に持って薩摩藩の顧問となり幕府に報復を図ったのでした。
薩摩藩主を〈薩摩大守・琉球国王〉と称して幕府とは別の会場を獲得し、フランスの新聞に、徳川幕府は日本の統一支配者ではなく、薩摩藩や肥前藩(も出品した)と対等の地位に立つ一封建大名にすぎなず、天皇だけが日本の君主である、と宣伝したのでした。
更に、〈薩摩琉球国勲章〉を作って社交界にバラ蒔き、勲章好きのフランス人を喜ばせるという芸の細かさであった」と綱淵さんの筆です。
【使節団の一行が憤慨したのはいうまでもない。】と続きますが、紆余曲折を経ながら、
第十六章の最後は、
「万国博覧会における日本の評判は極めて好かった。日本の出品物においては、養蚕・漆器・工芸品・和紙にたいして第1等の大賞牌(グランプリ)が贈られるなどヨーロッパで広がりはじめたジャポニスム(日本趣味)人気を煽った、と続けて、
【 はじめはウンザリすることも多かった徳川昭武の一行も、ナポレオン三世の謁見式が終わったのちは、皇帝が昭武を可愛がること一方でなく、……、幕府にたいする嫌がらせや中傷記事を載せていた新聞もおのずとその筆を収めて、〈日本公子の名巴里の満都に喧伝せられ、さしも紛擾の種を蒔きたる薩摩の使節もモンブランも、博覧会の未だ畢らざる中に早くも其蹤跡を晦ませり〉】
と『徳川慶喜公伝』の内容を記しています。