Reflections

時のかけらたち

小石川植物園の春の便り -1 ・・・ spring letter from Koishikawa Botanical Garden -1

2021-03-04 23:57:15 | nature

2月25日

牛天神から善光寺坂を歩いて蒟蒻閻魔に回った後、400年近く操業している澤蔵司稲荷のゆかりのお蕎麦屋さんで一休みして、ランチタイム。そのあと、ここまで来たので小石川植物園には寄らないではいられない私。娘はパスして帰宅。

江戸の街から自然の中に飛び込みました。実はここにも鎌倉時代の不思議なお稲荷さんが残されていますが・・

入口で職員の方にスミレの咲いている場所と種類をお聞きしたら、ノジスミレとタチツボスミレが咲き始めていると教えていただきました。最初に冷温室を見たかったのでちょっとだけスミレが咲いている場所を寄り道しなたら向かいました。

もうタンポポが咲いています。

 

この小さな花がイヌノフグリなのかしら?

 

オオイヌノフグリはブルーのきれいな花だけど・・・

 

ノジスミレとタチツボスミレの差が良くわからない。

 

 

ハナニラももう咲いていました。

 

 

 

 

 

 

冷温室のバイカオウレンが咲いているといいと思いながら入っていくと・・・

咲いてました!

去年3月に調布市野草園に行ったらもう終わりで花びらが数枚しか残っていませんでした。

 

 

 

 

タヌキモ科

 

 

 

アカモノ

 

ハマクワガタ

 

コミヤマカタバミ

 

 

リュウキュウアセビ

 

 

シマムラサキ

 

 

ハナボウラン

 

 

 

 

 

 

 

冷温室の花は季節感があるのですが、温室の世界は現実離れしてまたハマってしまいました。

 

Feb.25 2021   Koishikawa Botanical Garden 

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江戸の面影が残る小石川再訪3 善光寺坂から源覚寺へ ・・・ Zenkoji & Genkakuji

2021-03-03 11:59:26 | wonderland

2月25日

傳通院見た後は「こんにゃく閻魔」に向かいました。 前回見た不思議な澤蔵司稲荷は見ないで先に進みました。

坂の下の方から澤蔵司稲荷を見上げて・・・

澤蔵司稲荷の隣のお寺も古そうでした。反対側から来ると善光寺坂と呼ばれる坂を登るとあります。

小石川善光寺は、澤蔵司稲荷の東隣、伝通院より3分の地にある、浄土宗寺院。
天明年間に於大の方の念持仏「善光寺如来」を本尊として、縁受院として創建。近くにある傳通院の子院であったが、明治以降に長野善光寺の分院となった。境内は狭いが、伝通院や沢蔵司稲荷と異なり第二次世界大戦での戦災焼失を免れ、戦前からの堂宇が残る。

 

前回見た澤蔵司稲荷は素通りして、隣の善光寺を覗いてみました。

 

 

 

 

瓦も古そうです。

 

 

ここから少し遠回りして源覚寺に行きました。

 

源覚寺

寛永元年(1624年) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された。

本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)。

特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。

江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。

その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた。

現在の本堂は1979年に再建されたものである。   

                                       源覚寺HPより

 

戦争と深くかかわったお寺です。南の島で多くの船が沈みました。日本はそういう記憶を残していない国なのだと思いました。民間の船も多く犠牲になっています。保険会社に勤務していた祖父から上海に行き来していた時に前後の船が爆撃にあって沈められたという話を聞いたことがありました。

 

最初お寺に南洋のものがあって違和感がありましたが、後世にもっときちんと伝えるべきものと思いました。せめてここにあって伝えていってほしいと思います。

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL
1690年 元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和12年 サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和19年 サイパン島軍民玉砕して、囲碁消息不明となる。
1965年 昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
         発見者 ミツエ・ヘスター
1974年 昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住 D.V.クレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される。

南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
 かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所としてこの慰霊像を建立したものである。

  昭和50年7月18日

 

 

 

 

ここで御朱印をいただきましたが、若い女性がサラサラッと書いてくれました。家でスマホで写真を撮ろうとしたら、なんと左上の印鑑の真ん中がQRコードになっていました。進んでる~

こんにゃく閻魔のあるお寺の前は古いお店が並んでいて、ずっと昔、子どもが小さい頃主人と一緒に車で小石川植物園の時に迷って通った商店街がありました。その時、古くてタイムスリップしたように不思議な感じがしましたが、今でもあまり変わっていないようです。

 

白山通りから春日通りを曲がって茗荷谷方向に歩き、400年近く操業している澤蔵司稲荷のゆかりのお蕎麦屋さんに入ることができました。

萬盛では女将がてきぱきと接待をしていました。400年の歴史があるお店ですが、ビルの1階に入っていて古い感じはしません。お蕎麦も普通においしかったです。気持ちのいいお店でした。お得なランチセットにしてしまいましたが、朱塗りの入れ物に冷たいお蕎麦と油揚げが乗っているのが澤蔵司稲荷に献上しているお蕎麦でした。私が残念がると女将が澤蔵司の好物は天ぷらそばと言われていると教えてくれました。当時の天ぷらと今の天ぷらそば違うけどねと。

 

Feb.25 2021   Zenkoji & Genkakuji

 

 

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ベルカントサークル公開やイタリア語の週末、そしておいしいモノたち ・・・ belcanto, Italian and tasty things

2021-03-02 12:59:56 | my favorite

傳通院から澤蔵司稲荷の横、善光寺坂を下ってこんにゃく閻魔の源覚寺まで行ったのですが、今日はちょっとお休みして、直近のできごとなど・・・

 

あかりをつけましょ ぼんぼりに   

やっとぼんぼりに火をともしました。ぼんぼりの電球が特殊で切れてしまった方は昔からあるぼんぼりの電球を使ったので直径が大きくて、はめてからだとカサが通りません。細い指を入れてとりつけないといけないので、娘にやってもらいました。

 

お花をあげましょ 桃の花     

 

雛祭りも近づいてきましたね。あと何回お祝いできるのだろう・・・ 子供の頃に飾っていた私のお雛様も今年は30年ぶりくらいに出しました。

 

エリオ・ロカンダ・イタリア―ナ 2月26日(金)

西武デパートに何ヶ月かテンポラリーに出店していたエリオ・ロカンダも3月いっぱいになったので、先週の金曜日(26日)にヨガの帰りに冷凍のパスタソースとリコッタ・チーズが安くなっていたので最後に買いました。

パスタソースはイカ墨と、チーズ、カジキマグロとトマトの3種類買いました。イカ墨なんてどこのデモ変わりがないかと思ったけどやっぱりおいしかった。

デザートはやっぱりエリオ・ロカンダのカンノーロ。 カンノーロはうちの近くのアブルッツオ料理のお店のデザートで出てとてもおいしかったシチリアのおかしです。サクサクっとして美味しかったです。

 

夕飯の支度が楽だったので、先送りにしていたケーク・オ・シトロンをやっと作りました。国産のレモンを売っていると買っておきます。このケーキは退職して子ども園でパートをしていた時に副園長先生から教えてもらったものです。

 

ベルカントサークル体験 2月27日(土)

ベルカントの公開レッスンが無事終わりました。たくさんの方々に来ていただき、ありがとうございました。何と写真を1枚も撮っていなかったことに今になって気がつきました。2時間では時間が足りないのですが、呼吸法、発声、イタリア語の音声学、そして歌と端折りまくっていましたが、なんとか「私のお父様」をみんなで気持ちよく歌いました。

イタリア語の先生はどうして歌の場合に母音が変わるか原因がわかったと話していました。発音を暗くすることでピアニッシモの効果を出すということです。 i の発音を ü に意図的に近づけて暗いけれど弱々しくしない方法をよくとるとの説明がありました。

Aさんも初めて参加して、ゲネプロの時とよく似てると話していました。息子さんが管楽器を指導されているときのことも思い出されたとか・・・

こんなレッスンを受けられる私たちは幸せです。

 

帰りに三越によってやっと白酒を買うことができました。数年前まではスーパーで京都の桃山酒造が作っている白酒が買えたのですが、製造を中止したとのことでした。三越で2年前に江戸時代から続く酒造で白酒を造っていることを知ってそれ以来三越で買っています。

 

イタリア語の日  2月28日(日)

 

今回は宿題がなくて、勉強しないで行ってしまいましたが、語彙を増やすための形容詞を使って言いたいことを言ったり、ジェラートを注文してみたり、人に尋ねる、好みを言うなどフリーに練習してから、聞き取りをして、内容についての質問にこたえることをやって行きました。聞き取りがいつもスピードがあるので難しく、何回も聞いているうちに形が現れてきます。最後に紙を見て「な~んだ」と思ったり。最後に出てきたのがpronomi diretti + passato  prossimo が結構こんがらかり、近過去ではavereを使う場合は過去分詞が主語の性と数により変化しないけれど、目的代名詞が来た時は過去分詞が変化するというこんがらがるような文法です。最初簡単な(私にとっては簡単ではないけれど)準備運動から始まって終わるころには深くなってきています。難しいから楽しいのかもね。 レッスンが終わるころには少しの達成感を感じることができます。先生の組み立て方が上手なんですね。

お茶の時間に春らしいお菓子でリラックス。先生のお宅に着いた時はステキなカンツォーネが流れていました。

 

リコッタ・チーズ

日曜日の朝はエリオ・ロカンダで買ったリコッタ・チーズをホットケーキに乗せて。リコッタチーズははちみつと合います。

エリオのリコッタチーズは北海道でイタリア人が作っていると書いてありました。清澄白河で買った北海道のチーズもおいしかったです。

 

昨日(3月1日)の夕食にはリコッタチーズを使って久しぶりにカネロニを作りました。

デザートはレモン・ケーキです。

カネロニのパスタは今までもそのまま中身をつめて作っていましたが、どうしてもソースがかかっていないところがあればそこが固くてパリパリになります。パスタの箱を見ると「作り方にはそのまま使うと書いてあるが、2~3分茹でてから使うといい」と書いてありました。今回2分だけ茹でてから使いましたが、形がゆがんだものを戻そうとするとまだ固いのでひびが入ります。なかなか難しいです。生のままの方が使いやすいのですが。

今まではヨーグルトを水切りしてリコッタチーズ風に作っていましたが、ほんもののリコッタはやっぱりおいしいです。ワインで行った鶏のひき肉と茹でたほうれん草を和えるだけです。ホワイトソースはじゃがいもと長葱で作ります。

翌日の朝も残りのカネロニを食べました。

食べかけですみませんが、中身が見えます。

 

ヨガ

月曜日はたいていヨガを取ります。

左の膝が痛いので注意しながらポーズします。

それでもやっていると肺が広がり、背も高くなったような感じがして、気持ちがいいです。ストレッチをするとほんとうに伸びます。帰り道、久しぶりに目白までバスでそこから歩きました。 いい香りがすると思ったら沈丁花でした。

 

ベランダの春

ベランダを見るのが楽しくなる春の始めです。

 

 

 

つぼみがたくさんあります。

ムスカリにもまだ花芽が出ています。

 

 

少し前ですが、新日フィルのゲネプロの日にAさんとお昼にラーメンを食べました。(18日)

 

満鶏軒 鴨のスープです。

 

鴨が柔らかくてとてもおいしかったです。

 

 

やっと白酒がお供えできました。

 

 

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江戸の面影が残る小石川再訪 2 傳通院 ・・・ Denzu-in

2021-03-01 23:33:19 | memories

2月25日

牛天神から傳通院に向かいました。

安藤坂という坂道を登って行きます。この辺は坂が多いところです。江戸時代にはここまで海が入り込んでいました。牛天神あたりも、葛飾北斎の浮世絵でも海の向こうに富士山が見えています。

 

傳通院には外から見ているだけで、まだ中まで入っていませんでした。徳川を中心に著名人のお墓もたくさんあるようです。

 

 

 

 

 

徳川関連の女性や子供のお墓が多かったです。子供については第28男とかもうたくさん子どもを持っても早くに亡くなる世継ぎ候補者も多く、将軍って徳川家のために大変だったのだなと思ってしまいました。それにもまして悲惨だったのは女性の運命です。ここには家康の母、於大の方や千姫のお墓がありました。家の都合で結婚させられたり、離婚させられたり、すごい時代です。於大の方は自分がどこにいようとも家康のことを思い続けたと説明に書いてありました。この時代の人々の日記とか思いをつづった文学もなさそうですが、唯一残されているのが手紙なのですね。そこで思いを知ることができます。

於大の方(徳川家康の生母) の墓

 

 

 

 

 

 

一番大きかったのは千姫のお墓でした。時代の波に翻弄された苦労の多い人生を哀悼するように大きなお墓です。

 

 

 

日本史にはあまり興味がなかったので千姫の生涯も最後まで知りませんでしたが、姫路城に住んでいたことがあったのですね。愛情のある結婚をしてもその人を大阪城落城の日と同じ日に31歳で亡くして江戸にもどったということです。その後は結婚せず、二人の夫の菩提を弔って生きたとのことです。

 

千姫については下記のブログに詳しく載っていました。

千姫とは~徳川家の娘として波乱の人生を歩んだ戦国時代最後のヒロイン

 

 

 

 

 

 

 

 

庭には入れませんでしたので、外から撮りました。

 

 

 

ここから善光寺坂を通り、こんにゃく閻魔に向かいました。

 

Feb.25  2021   Denzu-in 

 

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