碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

43年後の「11月25日」

2013年11月25日 | 書評した本たち

日付が変わって、11月25日となりました。

今年もまた、三島由紀夫の命日がやってきたわけです。

昨年、この時期に、東京新聞に連載していたコラムで、以下のような文章を書きました。


42年後の「11月25日」

十一月二十五日は三島由紀夫の命日だった。自決したのは昭和四十五(一九七〇)年。当時私は高校一年で、意識して作品に接したのは没後からだ。

やがて三島自体に興味を持ち、毎年この日の前後に、私が“三島本”と呼ぶ関連書籍の新刊を読む。

たとえば二〇〇二年の橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』。〇五年は中条省平の編著『三島由紀夫が死んだ日』。椎根和『平凡パンチの三島由紀夫』は〇七年だ。

一〇年には多くの三島本が出て、『別冊太陽 三島由紀夫』には川端康成宛ての手紙が載った。「小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です」という言葉が印象に残る。

今年は柴田勝二『三島由紀夫作品に隠された自決への道』を読んだ。「潮騒」から「豊饒の海」までを分析し、その死の意味を探っている。

だが、これを読みながら気づいた。私は三島を理解したい一方で、未知の部分を残しておきたいらしい。新たな三島本でも謎が解明されていないことに安堵しているのだ。

先日の二十五日は日曜だったが、入試があり大学に来ていた。三島が自決した正午すぎ、たまたま上階にある研究室に戻った。

窓外には四谷から飯田橋方面にかけての風景。正面に背の高い通信塔が見える。そこに位置する防衛省本省庁舎、かつての陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かって合掌した。

(東京新聞 2012.11.28)


・・・・43年後の今日は、昨年出版された三島由紀夫『日本人養成講座』(平凡社)を再読することにしました。

高丘卓さんの責任編集による、三島の“ひとりアンソロジー”のような本です。

巻末に置かれた「私の中の二十五年」には、有名なあの文章が含まれています。

このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではにかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽの、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。




さて、今週の「読んで、書評を書いた本」は、次の通りです。

東野圭吾 『祈りの幕が下りる時』 講談社

石原千秋 『教養として読む現代文学』 朝日新聞出版

半藤一利 ・保阪正康 
『そして、メディアは日本を戦争に導いた』 東洋経済新報社

* 書いた書評は、
  発売中の『週刊新潮』(11月28日霜降月増大号)
  読書欄に掲載されています。


週刊新潮の「みのもんた」特集記事でコメント

2013年11月25日 | メディアでのコメント・論評

発売中の「週刊新潮」最新号。

掲載されている特集記事『視聴者が許してくれない「みのもんた」焦燥の日々』で、コメントしています。


記事はまず、島倉千代子さんの葬儀に関する失言やその他の失言について書いています。

「あの発言はアウトだね」と語るのは、「みのもんた」という芸名の名づけ親でもある野末陳平さん。

それに続いて、私のコメントがあります。

野末陳平氏がそう指摘すれば、上智大学の碓井広義教授(メディア論)も言う。

「世間から批判される言葉を発し続ける彼は、迷走というより暴走状態になっています。モノを言えば言うほど世間はみのさんから離れていくのに、モノを言わなければ忘れられてしまうと焦っている。業界に残りたいという焦燥感を越えた執着心のために、批判や炎上ですら“世間が自分を見てくれている”という錯覚に陥るのでしょうが、このままでは唯一の冠番組であるラジオ番組も、支えられなくなりますよ」


それから、ここ最近、みのさんがあちこちの雑誌に登場しているインタビュー記事に関して。

やはり、野末陳平さんの「このまま忘れられたらどうしようという焦りもあるんじゃないかな」という談話の後、私の部分になります。

一連のインタビュー記事にすべて目を通している碓井教授は、

「どこでも全く同じことを言っていますね。基本的には“息子に対する親の責任は取ったが納得はしていない”“週刊新潮をはじめとする活字の力にねじ伏せられ、不本意ながらこういう状況になった”と、不満をぶちまけているだけ。どうしてこんな仕打ちを受けるのかと被害者然とするために、メディアを利用しているんです。発信する場を失うのを恐れ、何が何でも露出が必要だと考えたのでしょうが、悪あがきにすぎません」


この後、みのさんが記者の質問に答えるブロックがあり、

「相談する相手がいなかったのが、対応が後手に回った原因だと思います」と、憤懣をぶちまけながら後悔の念を吐露するみのだが、碓井教授が言う。

「みのさんは親の責任という一般論に逃げたい。そうすれば、それ以上の批判には人格攻撃だと反撃できるからですが、あのような31歳を育てた親の責任は追及されて当然です。でも、それ以前に、公共の電波を通じて世の中に白黒つけてきた、みのもんたという“公人”の責任が問われているのです」


 以下の本文がまとめになります・・・


だが、バッシングであれ、相手にされるうちが華。

「反撃する相手すらいなくなったとき、どうやって苦境を切り抜けるのか」と野末氏。

迷走の果てにたどり着く先は、深夜バラエティのピエロか、世の中から忘れ去られた老境か。

(週刊新潮 2013.11.28号)