近藤史恵さんの本を読んだのをきっかけに数珠繋ぎに歌舞伎関連本を図書館で検索する。
こういう本がまず、見つかった。
結構オタクなビジュアル。
ムック本のような。
初心者に向けて歌舞伎にいざなうみたいな。
紗久楽さわさんのカットと言うか漫画というかすごくハードルを下げてくれる。
掲載されている歌舞伎エッセイは谷崎潤一郎や江戸川乱歩まである。
その中で近藤史恵さんが中学校の時から赤江瀑さんの本に導かれて歌舞伎を観始めたとあった。
その次に皆川博子さんも赤江瀑さんの本が歌舞伎にのめり込んだきっかけであったと。
衝撃!私も大学入学前に赤江瀑さんの小説から歌舞伎にのめり込んでいったのである。
私と同じように赤江さんに導かれて歌舞伎沼にはまっていた人がいるんだ!
それも名を成す小説家になられている。これは衝撃だった。
そこから、赤江瀑さんの「赤江瀑の「平成」歌舞伎入門」の本に行きあたるのである。
図書館で予約するとすぐに借りることができた。
「平成」と言う時代。私が子育てに翻弄されていた真っただ中で歌舞伎鑑賞の空白期である。(すごくえらそうな言い方)
平成4年くらいからこのブログで歌舞伎のカテゴリーで遡ってみると平成25年くらいまでまともに歌舞伎を観ていない。
まさにその間の歌舞伎の入門書と言う形にの歌舞伎評論、役者評論である。
さすがに専門家ではないから、ネット書評にも上がっていたが、関西歌舞伎の「仁左衛門の息子孝太郎、千之助」とあったが、千之助は孝太郎の息子だから孫であるなどの間違いはあったが、私にはとても感慨深いものがあった。
赤江さんはずっと山口県に暮らしてはったので、やはり、東京の舞台が中心になるのだろうなと思ったが。
歌舞伎の発祥の部分を述べた第一の章 歌舞伎の正体 27ページにこういう文章がある。
それは、この芸能の本質的な強さです。あとでも述べることになりますが、この芸能がよって立つ土壌の強靭さです。野に生まれ、生まれながらに単独で、その野に育って行くことだけがを覚え、身につけてきた芸能です。踏まれようが、蹴られようが、叩かれようが、殺されようが、生き残って行くのです。生き残って行ける手を案出するのです。この芸能の身体に、それは野が教え込んだ生存しつづけることへのしぶとさとでも言えるでしょうか。
江戸時代に政府からの弾圧を受けて変遷を遂げながらこの令和の時代まで生き延びた日本の芸能の様にピッタリの表現だと感心した。
だから、その底にマグマのように秘められたエネルギーが私たちを引き付けるのである。
それと、仁左衛門を評した部分110ページ
(略)もっと驚くべきことは、この立役の熟成ぶりに、いささかの汚れや濁りのカスミもかからなず、サァーッと一陣匂うような春風に洗いあげれらでもしたかのような清爽感が、いまだに消えずに、この人の身体にも、芸風にも、あるということです。
芸能の世界で暮らす歳月には、役者の身体、顔といわず、言うに言えない、なにものとも知れぬ汚染が、どこといって指し示されはしなくても眼に見えなく出てくるこのです。
それがこの人にはありません。そういうものを寄せつけない、洗いさらした白地が匂いたつように映え映えしさが、役者ぶりの基本にあります。(後略)
そうだったんだ、そうやね、仁左衛門の魅力は成熟の中の清潔感なのよね。これほど、言い表した文章はない。
ということで、久しぶりに歌舞伎評論を楽しんで読んだ。この人の歌舞伎神髄の解釈が近藤史恵さんや皆川博子さん、私を引き付けたなんだろうな。
昨日の晩御飯はしめ鯖、大根おろし。久しぶりにひよこ豆を人参、しいたけ、ひじきと炊いて。白菜、厚揚げの煮物。
早寝しました。
こういう本がまず、見つかった。
結構オタクなビジュアル。
ムック本のような。
初心者に向けて歌舞伎にいざなうみたいな。
紗久楽さわさんのカットと言うか漫画というかすごくハードルを下げてくれる。
掲載されている歌舞伎エッセイは谷崎潤一郎や江戸川乱歩まである。
その中で近藤史恵さんが中学校の時から赤江瀑さんの本に導かれて歌舞伎を観始めたとあった。
その次に皆川博子さんも赤江瀑さんの本が歌舞伎にのめり込んだきっかけであったと。
衝撃!私も大学入学前に赤江瀑さんの小説から歌舞伎にのめり込んでいったのである。
私と同じように赤江さんに導かれて歌舞伎沼にはまっていた人がいるんだ!
それも名を成す小説家になられている。これは衝撃だった。
そこから、赤江瀑さんの「赤江瀑の「平成」歌舞伎入門」の本に行きあたるのである。
図書館で予約するとすぐに借りることができた。
「平成」と言う時代。私が子育てに翻弄されていた真っただ中で歌舞伎鑑賞の空白期である。(すごくえらそうな言い方)
平成4年くらいからこのブログで歌舞伎のカテゴリーで遡ってみると平成25年くらいまでまともに歌舞伎を観ていない。
まさにその間の歌舞伎の入門書と言う形にの歌舞伎評論、役者評論である。
さすがに専門家ではないから、ネット書評にも上がっていたが、関西歌舞伎の「仁左衛門の息子孝太郎、千之助」とあったが、千之助は孝太郎の息子だから孫であるなどの間違いはあったが、私にはとても感慨深いものがあった。
赤江さんはずっと山口県に暮らしてはったので、やはり、東京の舞台が中心になるのだろうなと思ったが。
歌舞伎の発祥の部分を述べた第一の章 歌舞伎の正体 27ページにこういう文章がある。
それは、この芸能の本質的な強さです。あとでも述べることになりますが、この芸能がよって立つ土壌の強靭さです。野に生まれ、生まれながらに単独で、その野に育って行くことだけがを覚え、身につけてきた芸能です。踏まれようが、蹴られようが、叩かれようが、殺されようが、生き残って行くのです。生き残って行ける手を案出するのです。この芸能の身体に、それは野が教え込んだ生存しつづけることへのしぶとさとでも言えるでしょうか。
江戸時代に政府からの弾圧を受けて変遷を遂げながらこの令和の時代まで生き延びた日本の芸能の様にピッタリの表現だと感心した。
だから、その底にマグマのように秘められたエネルギーが私たちを引き付けるのである。
それと、仁左衛門を評した部分110ページ
(略)もっと驚くべきことは、この立役の熟成ぶりに、いささかの汚れや濁りのカスミもかからなず、サァーッと一陣匂うような春風に洗いあげれらでもしたかのような清爽感が、いまだに消えずに、この人の身体にも、芸風にも、あるということです。
芸能の世界で暮らす歳月には、役者の身体、顔といわず、言うに言えない、なにものとも知れぬ汚染が、どこといって指し示されはしなくても眼に見えなく出てくるこのです。
それがこの人にはありません。そういうものを寄せつけない、洗いさらした白地が匂いたつように映え映えしさが、役者ぶりの基本にあります。(後略)
そうだったんだ、そうやね、仁左衛門の魅力は成熟の中の清潔感なのよね。これほど、言い表した文章はない。
ということで、久しぶりに歌舞伎評論を楽しんで読んだ。この人の歌舞伎神髄の解釈が近藤史恵さんや皆川博子さん、私を引き付けたなんだろうな。
昨日の晩御飯はしめ鯖、大根おろし。久しぶりにひよこ豆を人参、しいたけ、ひじきと炊いて。白菜、厚揚げの煮物。
早寝しました。