寄贈した軍票が、ピース大阪で展示され何と表彰状迄頂きました。それとは関係無いですが、これ程迄に楽観主義者オプテイミストもいないかとも思う程の話がありました。それは英国人と日本人のハーフが、日本の兵隊になった話です。題名が面白かったので早速借本を借りました。
その題名は‘ぼくは日本兵だった’I was a Soldier of the Emperor著者J.B.ハリス。彼の父親は英国人で、ロンドンタイムズの日本特派員として勤めていました。読んだ人はまずいないと思いますので、紹介します。
日本人を母親として1916年(大正5年)神戸市で生まれ、その後父親のアメリカに転勤にも同行して行く事にもなりました。壮大なアメリカを知った後、日本に帰って来ました。16歳の時に父親が46歳で突然の死、そして母親が日本人に戻り、あえて反対する理由がないという事で日本人・外見上は西欧人である平柳秀夫となったのでした。
母親と二人、食べて行かなくてはと、英語誌のジャパンアドバイザーの記者になったのでした。それ以外にも、夏にはNHKラジオの英語講座と、そしてジャパン・タイムズへの移籍となって25歳を迎える時に太平洋戦争になったのでした。
戦争が始まると直ぐに外人と言う事で留置所に、それも雑居房でした。そこは汚く凄い匂いの便器の横で、膝を抱えてじっとしていて息の詰まるような沈黙を続けねばいけなかったのでした。仲間は人あたりのいい人でしたが、食べ物も酷い状態でした。新人が入る度に便器から遠くなり、2週間目に釈放、横浜の山下埠頭にある敵国人収容所に移ったのでした。
その後、日本国籍があると釈放されるのですが、何も分らず徴兵検査を受け甲種合格となったのでした。手際良く、その後召集令状が来て、2週間で軍隊に入いりました。母親に再び会う為に、まるっきりの西欧人がふんどしを締めて、特別扱いも無く日本兵になったのです。
日本の教育は受けていないので、まして軍隊用語とは縁もゆかりもありませんでした。話は上手にできても、例えば「兄は独身です」を「それはお気の毒ですね、毒を飲んで死んだなんて」意味を間違ったりしていた人でした。軍人勅諭など、総てをローマ字で覚えてたそうです。勿論、日本は勝てるはず無いと思っていました。
ここ迄が本の半分までいかない所で、この後北支に送られて行くのですが、そこでの戦争体験が半端ではありません。凄い辛い体験をしているにも関わらず、読み終えて、ドラマを読んでいる様に思ったのです。本の紹介となりましたが、新田次郎の「望郷」を読み終えた時と何かが違いました。同じ家族に会う為に、底辺にあるのが楽観主義者と言う事で、こんなにも違うと言う事を知らされました。
日記をつけていたそうですが、復員の直前、旧上官の命令で総ての記録と写真を焼いてしまったと書いています。40年を越えた話を思い出して書いたそうですが、良く書けています。
条件はまるっきり違いますが、私も同じく40年以上前に欧州行った時の話を書きました。メモがありましたから書けましたが、忘れた事が殆どです。やはりこの本は、思い出すには衝撃度が違うと感じました。戦争の悲惨さを別の角度から伝えています。
その題名は‘ぼくは日本兵だった’I was a Soldier of the Emperor著者J.B.ハリス。彼の父親は英国人で、ロンドンタイムズの日本特派員として勤めていました。読んだ人はまずいないと思いますので、紹介します。
日本人を母親として1916年(大正5年)神戸市で生まれ、その後父親のアメリカに転勤にも同行して行く事にもなりました。壮大なアメリカを知った後、日本に帰って来ました。16歳の時に父親が46歳で突然の死、そして母親が日本人に戻り、あえて反対する理由がないという事で日本人・外見上は西欧人である平柳秀夫となったのでした。
母親と二人、食べて行かなくてはと、英語誌のジャパンアドバイザーの記者になったのでした。それ以外にも、夏にはNHKラジオの英語講座と、そしてジャパン・タイムズへの移籍となって25歳を迎える時に太平洋戦争になったのでした。
戦争が始まると直ぐに外人と言う事で留置所に、それも雑居房でした。そこは汚く凄い匂いの便器の横で、膝を抱えてじっとしていて息の詰まるような沈黙を続けねばいけなかったのでした。仲間は人あたりのいい人でしたが、食べ物も酷い状態でした。新人が入る度に便器から遠くなり、2週間目に釈放、横浜の山下埠頭にある敵国人収容所に移ったのでした。
その後、日本国籍があると釈放されるのですが、何も分らず徴兵検査を受け甲種合格となったのでした。手際良く、その後召集令状が来て、2週間で軍隊に入いりました。母親に再び会う為に、まるっきりの西欧人がふんどしを締めて、特別扱いも無く日本兵になったのです。
日本の教育は受けていないので、まして軍隊用語とは縁もゆかりもありませんでした。話は上手にできても、例えば「兄は独身です」を「それはお気の毒ですね、毒を飲んで死んだなんて」意味を間違ったりしていた人でした。軍人勅諭など、総てをローマ字で覚えてたそうです。勿論、日本は勝てるはず無いと思っていました。
ここ迄が本の半分までいかない所で、この後北支に送られて行くのですが、そこでの戦争体験が半端ではありません。凄い辛い体験をしているにも関わらず、読み終えて、ドラマを読んでいる様に思ったのです。本の紹介となりましたが、新田次郎の「望郷」を読み終えた時と何かが違いました。同じ家族に会う為に、底辺にあるのが楽観主義者と言う事で、こんなにも違うと言う事を知らされました。
日記をつけていたそうですが、復員の直前、旧上官の命令で総ての記録と写真を焼いてしまったと書いています。40年を越えた話を思い出して書いたそうですが、良く書けています。
条件はまるっきり違いますが、私も同じく40年以上前に欧州行った時の話を書きました。メモがありましたから書けましたが、忘れた事が殆どです。やはりこの本は、思い出すには衝撃度が違うと感じました。戦争の悲惨さを別の角度から伝えています。