旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

379 京都に爆弾が落ちた!          (毎週土曜更新しています)

2014-09-06 05:49:35 | 思い出日記
  京都に爆弾?本当です。京都は戦災に遭ってないと思っている人が多いと思います。昔、我が家の裏に1発、伏見の方に1発落ちました。聞いたのはその2発だけと思いましたが、念のためにインターネットでチェックしました。
  違いました昭和20年1月の馬町付近の爆撃では死者41人・被害家屋は316戸に上ったそうです。これが京都空襲の最初で、その後も散発的に爆撃がありました。そして、6月には西陣に7発の爆弾が落とされ、死者50人・被害家屋は292戸もありました。日本住宅を火災にして短時間で、破壊するのが目的に作られた、悪魔のようなばくだんで、焼夷弾いいます。B29が空からこれをいっぱい民家に落としていったのです。無差別にです。
 全然知りませんでしたが、「智恵光院通下長者町上る」にある辰巳公園には、西陣空襲を忘れていかないようにと建てられた石碑もあるということです。ほんねき(直ぐ近所)ですが生活範囲外でしたから、今度、機会を見つけて言ってみたいと思います。

 焼夷弾は、しょういだんと言います。『小さい頃、親からその話を聞いてたので子どもの私は焼夷弾の難しい漢字を知らないし聞き違いをして、「しょうゆ弾?」というと、母が爆笑してしょうゆじゃない!しょういだんって何度も言わせた事があります。』これは残念ながら他人の話で、恥ずかしながら私は今回迄‘しょうゆだん'と思っていました。

 我が家は私がまだ小さい時、2階の天井が編みこんであって、母に聞いた所、終戦まで焼夷弾が落ちた時に大丈夫なように天井を抜いたと言っていました。子供の時ですから、そうかと思っただけでしたが、屋根に落ちたら同じ事とでは無いのかと思います。戦前の人はみんなそう思わされたのではと思いますが、未だに分からないです。未だと言う事は、一生分からないです。

 母親に聞いた話ですが、その焼夷弾が我が家の裏に落ちたと言う事でした。当時は土間でしたから、土がみんな床の上に上がって、我が家も疎開したそうです。良くこんな所に疎開したと思えるのですが、北大路を(北)上がった親戚の近くで、今なら車で行けば10分はかからない所です。その家を売ったお金を貯金したのでしたが、銀行も潰れ何も残らず仕舞だったと聞きました。

 私も知らなかったことですが、昔、大阪の中堅の旅行会社の支店長が、嬉しい事にその当時の我が家を知っていまして、その町内は我が家を含み3軒で持っていたと聞きました。自己満足ですが、写真で見る限りナカナカの家でした。私はその家より2筋下がった所で生まれたのは確かですが、どうして本籍が疎開先の北区になったのか聞かずしまいでした。その後、私が生まれた工場兼住居が我が家になったのです。

 堀川通りも今のように広くは無くて、良く四条のように繁盛していた通りだと叔母さんが生きている時に言っていました。その家は蒟蒻屋を始めたばかりで、失敗して蒟蒻を堀川に良く捨てたそうです。その叔母さんも戦争によって道路を広げるので立ち退きさせられたので被害者でした。

 

 


コメント
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