旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

470  思い出に残る先生たち  (毎週土曜日に更改しています)

2016-06-04 04:45:40 | ブログ
 小学校の二年生の時、幼稚園の二宮先生が亡くなったと聞いた事、それが人生最初の死と言うものでした。若いのに亡くなった事に大変ショックを受けた事を覚えています。

 同じ頃、机に縛りテープで口をふさいだメガネの沢田先生。その頃だから、今そんな事をしたらマスコミのいい材料になっていると思います。でも、悪かった事と未だに覚えているのは良かったかも知れないです。教師は大事だと、今更ながら思います。
 中学校の1年の時に、「ヒザボシ(膝頭)が痛い」と言ってまだ幼児言葉(本当は京ことば)を使うと言って注意をされた朝倉先生。それと弁論大会に出た時、後ろで耳に手を当てて、良く聞こえないと注意した能勢先生。音楽の先生でしたが、ビートルズの音楽が嫌いでした。 

 生涯の先生と言うと、古典の水谷先生です。高校時代の先生、友人とは、毎日学校に行って会って、年齢的にも大人への入り口でその意味で忘れ得ないです。その先生が亡くなったとは、未だに信じられないです。

 卒業してから手紙のみの繋がりだけでした。1972年に偶然、スイスの田舎で映画の如くバスから降りて来られた時に再会する事になったのです。私は貧乏旅でしたが、考えて見れば、当時、一高校の教師がハワイが夢の時代に欧州迄行くとは素晴らしい事です。
 余談ですが、京都の我が家の向かいの家族全員は、その何年も前に欧州にいっています。当時既に水洗トイレ、何町か先の堀川迄下水を通した事をしていと聞きました。その後、高校の友人が銀行勤めで預金の勧誘、私の名を出して預金を獲得した事を同窓会で謝っていました。

 当時は夏目雅子主演「鬼龍院花子の生涯」の「五社英雄」方が有名で「五所平之助」と聞いても知らなかった事を遅すぎますが、先生に謝らなくてはいけないです。その「五所監督」が日本初のトーキーを撮られ、『煙突の見える場所』等多くの作品、日本映画監督協会理事長を16年間もやられた方とは全く知らなかったです。採点のサインに「ごしょ」と書かれて、監督が亡くなられた後は、偲ぶ会の会長をされていました。お詫びを兼ねて、先生が書かれた数々の五所監督の本は、図書館に寄贈しました。

 その人生を見習う必要があるのが、好きな事をやられた事です。高校野球の公式記録員、そして旅行、「偲ぶ会」に毎年5月の連休に東京、亡くなる前迄、甲子園に毎週のように阪神ファンとして応援と人生を人一倍、精一杯楽しんでおられました。自分のやりたいように生涯を送られたと思います。一人で亡くなっても孤独死でもありません。亡くなっても私達の教師です。良い先生に学んだ事に感謝一杯です。
 
コメント
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