1年ぶりにコメントがあった風来坊士108さん、そして多数の人にも再び何故書き始めたか、早いものであれから10年過ぎました。
(一話 2009年10月2日)
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何も知らず、何も分からず、船で始まった旅。ソ連、ヨーロッパそしてアメリカ、市川雷蔵とポール ニューマンが好きと言う京都人。色々旅して、こんな昔があったなーと思いつくまま書いていこうと思いました。この旅で自分が京言葉を話すことを知り、それがどういう訳か話せ無くなりました。 子供の頃は、石あて、石けり、釘さし、メンコ、蝉取り、駒回し等々遊んでばかりの子が、それも1ドルが360円当時でした。こんな時代だったなあと自分自身で振り返り、今ならやっぱり知り過ぎて同じように行けそうに無いです。そうです、若かったのです。
無事を定年を、仕事半分ですが、ハワイ、シアトル、リノ、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンデェゴ、ラスベガス、グランドキャニオン、フラッグシップ、ティファナ、モントレイ、カーメル、ラスベガス、ダラス、ワコ、タルサ、ニューオリンズ、サンアントニオ、アルバカーキ、アマリロ、ニューヨーク、ボストン、ワシントン、バルチモア、フィラデルフィア、ナッシュビル、キーウェスト、ナッソウ、セントオーガスティン、デートナビーチ、オーランド、マッコンブ、シカゴ、デンバー、トロント等々、そしてメキシコシティ、カンクーンと忘れたとこも多くありますが、ざっとこれだけの都市を行きました。(10年経つとどんな所か忘れ去っています)
アジアで思いつくまま、シンガポール、マレーシア、マニラ、ソウル、プサン、タイペイ、カオシュン、ビルマ(現ミヤンマー)、バンコック、ホンコン等々、色々良く行ったと思います。
そんな私が60歳になって、その昔、学生の時初めて旅に出た頃はどんなだっただろう。旅先であった人たちはその後どうなったのだろうか?みんな元気でいるのだろうか?元気ですかーー、私は元気一杯です。
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*後書、’71年当時の学生の時の思い出旅行を暇つぶしに166話迄書きました。京都から横浜へ、母親がホテルポーターにチップ1,000円を、船でナホトカ(現ロシア)、列車でハバロフスク。古い航空機でモスクワ、列車でワルシャワからウイーンへ。コインロッカーの使い方も知らなかったでした。
2週間後、フランクフルトで京都人に、こんなにゆっくり話していたと知りました。ヒッチハイクで、スウェーデンを目指し、幸運にもデンマークで目的の福祉関係の人に会い、そこに戻って約半年。その後英国からドーバー海峡をフォバークラフトとバスでパリへ、ヒッチハイクでスペイン等、合計約2年。帰国後、電車通りの丸太町通りから我が家のあった黒門通りに入った時、自分の背が伸びたように感じたのは全ての家の軒(のき)が低かったのでした。この時の衝撃は忘れないです。
後、欧州へ4度、35年程前、スコットランドで誰もいない両側山の真っ直ぐな道路で140キロで走った事。友人がいるスイス、イタリア、サンセバスチャン、そしてアンカレッジにはスキーにも、南回りで立ち寄りですがニューデリー、カイロ、カラチ、ローマ。JALさんの確かスペイン就航記念で、アムステルダムでは、近畿日本ツーリストさんの寮にお世話になり、それらを166話に書きました。
バーミュウダーへ夫婦で行った時、レストランで隣の席に座ったワシントンから来た夫婦に、ワイン1本をプレゼントされ、お返しをと言うと映画の様に「君も私の年になれば同じ事をすれば...」。ダラスでは何時もシュ=修さんに、ロンドンでは治平さんと、お二方には大変お世話になりました。この場を借りてここで出会った皆さんに「本当にお世話になり有難う御座いました」長~い後書になりました。
(一話 2009年10月2日)
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何も知らず、何も分からず、船で始まった旅。ソ連、ヨーロッパそしてアメリカ、市川雷蔵とポール ニューマンが好きと言う京都人。色々旅して、こんな昔があったなーと思いつくまま書いていこうと思いました。この旅で自分が京言葉を話すことを知り、それがどういう訳か話せ無くなりました。 子供の頃は、石あて、石けり、釘さし、メンコ、蝉取り、駒回し等々遊んでばかりの子が、それも1ドルが360円当時でした。こんな時代だったなあと自分自身で振り返り、今ならやっぱり知り過ぎて同じように行けそうに無いです。そうです、若かったのです。
無事を定年を、仕事半分ですが、ハワイ、シアトル、リノ、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンデェゴ、ラスベガス、グランドキャニオン、フラッグシップ、ティファナ、モントレイ、カーメル、ラスベガス、ダラス、ワコ、タルサ、ニューオリンズ、サンアントニオ、アルバカーキ、アマリロ、ニューヨーク、ボストン、ワシントン、バルチモア、フィラデルフィア、ナッシュビル、キーウェスト、ナッソウ、セントオーガスティン、デートナビーチ、オーランド、マッコンブ、シカゴ、デンバー、トロント等々、そしてメキシコシティ、カンクーンと忘れたとこも多くありますが、ざっとこれだけの都市を行きました。(10年経つとどんな所か忘れ去っています)
アジアで思いつくまま、シンガポール、マレーシア、マニラ、ソウル、プサン、タイペイ、カオシュン、ビルマ(現ミヤンマー)、バンコック、ホンコン等々、色々良く行ったと思います。
そんな私が60歳になって、その昔、学生の時初めて旅に出た頃はどんなだっただろう。旅先であった人たちはその後どうなったのだろうか?みんな元気でいるのだろうか?元気ですかーー、私は元気一杯です。
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*後書、’71年当時の学生の時の思い出旅行を暇つぶしに166話迄書きました。京都から横浜へ、母親がホテルポーターにチップ1,000円を、船でナホトカ(現ロシア)、列車でハバロフスク。古い航空機でモスクワ、列車でワルシャワからウイーンへ。コインロッカーの使い方も知らなかったでした。
2週間後、フランクフルトで京都人に、こんなにゆっくり話していたと知りました。ヒッチハイクで、スウェーデンを目指し、幸運にもデンマークで目的の福祉関係の人に会い、そこに戻って約半年。その後英国からドーバー海峡をフォバークラフトとバスでパリへ、ヒッチハイクでスペイン等、合計約2年。帰国後、電車通りの丸太町通りから我が家のあった黒門通りに入った時、自分の背が伸びたように感じたのは全ての家の軒(のき)が低かったのでした。この時の衝撃は忘れないです。
後、欧州へ4度、35年程前、スコットランドで誰もいない両側山の真っ直ぐな道路で140キロで走った事。友人がいるスイス、イタリア、サンセバスチャン、そしてアンカレッジにはスキーにも、南回りで立ち寄りですがニューデリー、カイロ、カラチ、ローマ。JALさんの確かスペイン就航記念で、アムステルダムでは、近畿日本ツーリストさんの寮にお世話になり、それらを166話に書きました。
バーミュウダーへ夫婦で行った時、レストランで隣の席に座ったワシントンから来た夫婦に、ワイン1本をプレゼントされ、お返しをと言うと映画の様に「君も私の年になれば同じ事をすれば...」。ダラスでは何時もシュ=修さんに、ロンドンでは治平さんと、お二方には大変お世話になりました。この場を借りてここで出会った皆さんに「本当にお世話になり有難う御座いました」長~い後書になりました。