旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

番外 色々な知り合い 戦友会

2010-12-18 11:46:52 | 日記
 自分の息子のように凄く可愛がって、私も父親をなくして父のように思っていた人がいました。お陰で、戦後生まれの私も戦争と言うものに深く関わったのでした。
 京都の人で染色の仕事をして、私の父親のことも良く知っていました。父親は足が少し片一方細くなっていて兵隊に成れずに軍隊には行きませんでした。兵隊に行きたく無い為に醤油を一升も飲んでいた人もいる時、自分はそんな事もせずに幸運だと言っていました。ただ、京都に2発の爆弾が落とされて、その一つが我が家の後ろに落ちてその当時土間の土がみんな上に上がって大変で、(今なら車で直ぐの所に)疎開しました。戦後も我が家は、仕事上石鹸を箱ごと部屋一杯に持っていた為に比較的に恵まれていたと言っていました。そもそも父が戦争に行っていたらこのブログも書けなかったに違いありません。

 その方は128ビルマ会の人で、私も戦友会にも常に誘って貰って参加したものでした。若い人が増えるわけでなく常に人数が少なくなって行く会と聞きましたが、その通りでした。しかし、その当時会はまだ盛況で常に大勢の人が集まっていました。
 会が終わったら、祇園や先斗町のお茶屋で、5-6人で酒を飲むと言うのが普通でした。そんな時に私はお座敷芸もできずに芸者さん相手にお酒を飲む事しか出来ませんでした。それでも若かったから自由にさせてもらいました。とても自分一人でとても行ける所では到底ありませんでした。情けないですが、今でも行ってません。 

 その当時に聞いたビルマと言う国は、英国の圧制を開放してくれた日本に感謝して、負けて逃げる時に日本兵の為にビルマ人たちが、わずかな食料しか無いのに、家の前に食べ物が置いてあったそうです。ジャングルの中ではヒルに悩まされたそうで、ヒルが付いたらタバコを近づけて剥がすとか色々な事を聞きました。そうしないと取れなかったそうで、戦車が人をはね踏んづけて、その手足が跳んでいくことなど、梅毒にかかった2人とか、小便をするとアリが一杯寄って来た話等どれも私にとっては衝撃的なものでした。殆ど私が覚えている事は敗走の時のことでした。
 たまたま、大尉と言う人が来ていて当時は凄く怖い人かと聞くと、そのような事もなく、鉄砲の弾はいつも前から飛んで来ると思ったら大違いだと言う、本気な脅しで、階級など関係無かったと聞いて、なるほどと感心したりしました。
 又、その内の一人ですが、兵隊やくざを地で行くような人もいて、馬の背中に打ち網を常に乗せて人を乗せなかった話。上官に短刀を持って押し掛けて行った武勇伝も本人から聞きました。その人は銀閣寺の近くでスッポン料理店をやっていましたが、行くといつも私に帳場で一杯やっていく様に言ってくれました。私も人を誘って良くその店に行ったのですが、何時ものように一杯飲んでいると、伝票整理をしていて、その値段の高さに驚いた事を思い出します。

 私がなんの予備知識も無く始めてビルマ(ミヤンマーでは無かったし、直接キップも変えなかった時代)に行った時、女性が、皮膚病かと思うほど、みんな顔が白くザラザラして気持ち悪い思いをしたのでした。幸いにそれは日焼け止めと後から聞きました。そんな所で寺院に入る際は靴下を脱がねばならなかったのでビクビクしていました。一般の家も都会では鉄の柵がしてあって何とも恐ろしく感じたのでした。
 同じグループの中に、大日本帝国のパスポート(後にも先にも初めて見ました)を持っていた木村さんと言うお婆さんの話をしなければいけないです。
この方は、当時既に80歳を超えられてかなりの小柄なお年寄りでした。その方が凄いお医者さんで、伝染病(多分コレラ?)になった人たちを、私など真似できない、病人のカヤの中で二人になったりして、数え切れない位の人を助けたのでした。
 当時もう少し話を聞いていたらと、悔いています。間違いなく歴史に残る功績があった人でした。現地に行くと昔を思い出されたのか、衛生状態の悪い中、屋台の食べ物を買って食べておられました。
 この様な人がかなりいたと思うと、私も色々な人にお会いしている事を思い出します。
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