内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(十五)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(八)

2015-04-12 00:22:26 | 哲学

 マルグリット・ポレートは、「何故ということなしに」(sans pourquoi)愛する人々と愛から多額の収益を期待する者たちとを対比する。高貴なるものと下劣なるものとのこの対比は、『鏡』の中では、「精妙なる愛を求める」魂と利益に惹きつけられた魂との対立として表現されている。私たちは、エックハルトが、同じような対立を、ドイツ語説教の中で、純粋な離脱を理解した人々と外面的で自己中心的な仕方で自己救済を図る者たちとの間に立てているのを見るだろう。マルグリットは、おそらくエックハルト以上に激しい調子で、「地上の楽園の探求者たち」に対しての軽蔑を様々な表現によってくり返す。それらの中には、彼女を異端として弾劾したパリ大学の神学者たち、彼女のことを正しく評価できなかった修道士たち、彼女の教えを理解できなかったベギン会の女性たちも含まれている。
 マルグリットは、『鏡』の中の魂のようにその生を生き切った。その生き方は、公正な裁きが期待できない異端審問の席へ召喚を拒否し、火刑の脅迫にも己の信ずるところを撤回することはなく、火刑台の上で生きたままその身を焼かれるまで、「論理的に」一貫していた。ここで、レジスタンス活動に身を投じ、ゲシュタポによって銃殺された数理哲学者ジャン・カヴァイエスをその友人だったジョルジュ・カンギレムが哀悼の意を込めて評した言葉「ジャン・カヴァイエス、それは死に至るまで生き抜かれたレジスタンスの論理である」(« Jean Cavaillès, c'est la logique de la Résistance vécue jusqu’à la mort », Georges Canguilhem, Vie et mort de Jean Cavaillès, Allia, 2004, p. 36)を捩ることを許されるなら、次のように言うことができるだろう。マルグリット・ポレート、それは火刑台まで生き抜かれた魂の解放の論理である。
 その生きられた論理的一貫性は、神秘家がどうしても突き当たる矛盾、神についての言表不可能性の自覚と神についての夥しい述作への衝迫との間の矛盾を説明するところにも表れている。述作は、彼女にとって、魂の解放に至る以前の、つまり魂がまだ「彷徨えるものたち」の仲間であったときに必要とされたのだ。
 マルグリットが自らの魂の遍歴を語るのは、人間の魂がその起源から遠く離れるとき、再び解放され無化されるまでは無益な苦労を重ねるものであることを示すためであった。そこに記述された一つの生ける魂の遍歴と無化によるその解放の経験に普遍性があるからこそ、教会当局から禁書という烙印を押されたにもかかわらず、『鏡』は、中世からルネサンス期にかけて言語的障壁を乗り越えつつ広く読まれたのであろう。
 今日マルグリット・ポレートの『単純な魂の鏡』を読むことは、一人の類稀な古の女性神秘家への好事家的趣味から、あるいは、中世ヨーロッパの異端運動への宗教史的関心から、あるいはまた、中世フランス文学研究の一対象としてだけ可能なのではない。それは、己の魂の救済を渇仰している人たちにとっての天来の甘露でありうるだろう。

Et désormais Amour œuvre en elle sans elle.