人のうちでの神の誕生と神のうちでの人の誕生という二重の誕生において、超越は内在となる。しかし、エックハルトにおける、この「超越即内在」は、精神的内在主義であって、哲学的汎神論ではない。
この二重の誕生において離脱した魂の状態を指し示すために、エックハルトはまた「貧」(Armuot)についても語る。エックハルト全説教中最も有名なドイツ語説教五十二は、マタイによる福音書第五章第三節「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」(Beati pauperes spiritu, quoniam ipsorum est regnum caelorum)の釈義という形を取りつつ、この「貧」を主題とする。
この説教の中で、エックハルトは、神に向かって、自分を神から解放してくださるようにと祈る。ここで言われる神とは、被造物の造り主としての神である。とりわけ、エックハルトは、三つの「貧」について語る。すなわち、「意志の貧」「知の貧」「所有の貧」である。「何も意志せず、何も知らず、何も持たない人、そのような人こそが貧しき人である」(『エックハルト説教集』岩波文庫、162頁)。
あらゆる被造物から離脱した魂は、その非被造的状態に立ち戻り、かくして、「神がその本性によってそうであるところのものに恩寵によってなる」(この表現は、エックハルトによってしばしば用いられるが、七世紀に活躍した神学者にして修道士であった聖マクシモスに由来する)。その深奥の本性に適い、真に己自身であるためには、魂は神と合流し、神とならなくてはならない。エックハルト神秘主義の最終目的は、このようなキリスト教徒の真の神化(théosis, deificatio)なのである。
この最終目的を、エックハルトは、ドイツ語説教・論述の中ばかりでなく、ラテン語著作の中でも、はっきりと表明している。例えば、『ヨハネ伝福音書注解』の中の同福音書序文(第一章第一節から第十八節まで)の注解において、次のように記している。
Primo, quod fructus incarnationis Christi, filii dei, primus est quod homo sit per gratiam adoptionis quod ipse est per naturam, secundum quod hic dicitur : dédit eis potestatem filios dei fieri, et Cor. 3 : « revelata facie gloriam domini speculantes, in eandem imaginem transformamur a claritate in claritatem ».
神の子キリストの受肉の最初の果実とは、人が、帰依の恩寵によって、神が本性によってそうであるところのものになることである。それは「神の子となる権をあたへ給へり」(ヨハネ伝福音書第一章第十二節)とあり、また、「コリント後書第三章」に、「我等はみな面帕なくして鏡に映るごとく、主の栄光を見、栄光より栄光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ像に化するなり(第十八節)とある通りである。