内的自己対話-川の畔のささめごと

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「離脱・放下」攷(十九)― エックハルトへの系譜学的アプローチ

2015-04-16 09:46:29 | 哲学

 マイスター・エックハルト研究文献は、英独仏語に限っただけでも膨大な量で、とてもではないが、専門家でもない私にはそれらを一望することさえできない。ご興味のある方は、Nikulaus Largier の Bibliographie zu Meister Eckhart, Fribourg (Suisse), Universitätsverlag Freiburg, 1989 及び同氏が学術誌等で定期的に継続しているその補遺を参照されたい。
 それにしても、素人は素人なりに、エックハルトを真剣に読むためのアプローチの仕方を作業仮説的に規定しないことには、それでなくても難解で、魅惑的ではあるが誤解を招きやすい表現に満ちたテキスト群にいささかなりとも接近することさえできない。そこで、テキスト読解に先立って、私なりのアプローチの仕方を暫定的に規定しておきたい。
 ストラスブールに留学生として来た一九九六年以来、仏語のあるいは仏訳されたエックハルト研究書を少しずつ買い集めてきた私の手元には、今三十冊余りの研究書がある。それらを覗いて見ただけでも、エックハルト研究には実に多様なアプローチがあることがわかる。その多様性にはいくつかの理由があるが、その主な理由の一つは、エックハルトの教説そのものに多様な読みを許す多面性があることである。それはあたかも見る角度によって相貌が変化する多面的な像のようである。エックハルトを、神学者、説教者、神秘家、はたまた哲学者として見るか、あるいはそのいずれでもあると見るかによって、自ずとテキストの読み方も変わってくる。
 エックハルト研究をさらに多様化させている要因の一つに、比較思想的アプローチがある。このタイプのアプローチは、ルドルフ・オットーの『西と東の神秘主義―エックハルトとシャンカラ』(一九二六年)を嚆矢とするが、その後もアラブ思想研究の立場からの比較研究など、今日まで様々な試みがなされてきている。日本との関係に限定して言えば、それは、鈴木大拙によって先鞭をつけられ、上田閑照によって展開・深化された、禅仏教との比較研究である。
 異端の嫌疑を掛けられるほどにある方向に徹底化されたエックハルトのドイツ語での言説は、こうした比較研究を誘発しやすい章句に事欠かない。しかし、当然のことながら、このような比較研究的アプローチは、テキストそのものの入念な読解作業、その背景をなす文脈の歴史的研究、思想史的系譜学的研究をまず行ってからでないと、表面的で牽強付会なものに終わってしまうおそれなしとしない。なぜなら、それでは、いわば最初から見込み捜査を行っているようなものだからである。これでは、自分の見方に都合の良い「証拠」だけしか見えてこない。
 さしあたり私が自分の読解作業の「ガイド」として参照するのは、すでに言及したことがあるが、Benoît Beyer de Ryke の Maître Eckhart. Une mystique du détachement (Ousia, 2000) と、その四年後に同氏が刊行した Maître Eckhart (Entrelacs, 2004) とである。このニ著の中で、一九七一年生まれのベルギーのこの若き俊秀は、エックハルト研究の歴史と現在について、実に情報量が豊富でバランスが取れていて細部まで行き届いたパノラマを明晰この上ない文章で提示してくれている。
 明日の記事から、今回の一連の記事の主題である「離脱 Abegescheidenheit」と「放下 Gelâzenheit」というエックハルト神秘思想の中心概念について、Benoît Beyer de Ryke が系譜学的アプローチを提示している部分を読んでいく。