昨日の記事で見たように、マグデブルクのメヒティルドの『神性の流れる光』は、パトス的と形容できるような表現に溢れている。しかし、そこから、彼女のような神秘体験を感覚、感情、あるいは心理状態の問題に還元してしまうことに西谷啓治は強く反論する。
神秘家達の書いたものが歓喜や苦痛のパトス的な諸状態の記述に満たされてゐることは事実であるが、そのことは彼等が自己の主観的な感情に生きてゐたことを意味しない。寧ろ逆に、彼等はその時々の感情の去来に妨げられないような、従つて彼等にとつては、神との合一は歓喜や恍惚の心理的状態にのみ実現されるのでもなく、またそれによつて証明されるものでもない。自己の心的状態が、神から遠ざかつたやうな苦痛に陥る場合でも、なほ神と共にあることを感得し、その苦痛に安らかに身を委せることによつて、神の不変なる現在を自己の身上に証すること、それが彼等の立つてゐた所であつた。(彼等の立場が信仰の ―― 特に唯信の立場に連なる点もそこにある。)そしてメヒティルドに於てはかかる立場が特に強く現はれてゐるのである(西谷啓治「マグデブルクのメヒティルド」『西谷啓治著作集』第七巻、132頁)。
この「神の不変なる現在」を自証するには、しかし、ただひたすらに神だけを神の故に愛するだけでは不十分で、神を諸々の被造物のうちでも愛せねばならず、それが神に最も近く立つ立場である、とメヒティルドは言う。諸々の被造物のうちで神を愛するとは、一切の事物を正しく用いる知恵を発揮しながら、まさにそのことによってあらゆる地上の事物に対して無縁であるような心胸をもつことに他ならない。神における「自由の高貴性」は、地上の一切の事物を正しく用いながら、それらに対して無縁なままであるという「聖なる貧」においてこそ生きられる。
この高貴な自由と現実の中の困厄との矛盾的同一性こそが、「独逸神秘主義の底を流れる最も根本的な立場」であると西谷は言う(136頁)。この点でメヒティルドにおいて注目すべきなのは、「神の疎外」(Gottesentfremdung)という次元である。
花婿たる神からの尽きせぬ恵みを辞退し、花嫁たる霊は、花婿たる神に天の最低部に下されんことを請い願う。彼女はそこへ下り、神も彼女の後を追って下る。そのとき神は、いつまでここにとどまるつもりかと霊に問う。それに対して花嫁たる霊は、「愛する主よ、私から離れてください。そして貴方の栄誉のために私をもっと深く下へ沈ませてください」と願う。その後、霊と肉とは大きな闇のうちに入り、そのため霊は神の認識や光を失い、神の友情も忘れ、愛も去ってしまって、不信仰と信仰との動揺に陥る。
西谷によれば、このような「神の疎外」は、宗教学者が神秘主義のうちの一類型として挙げる「受難の神秘主義」であり、受難のキリストとの神秘的合一を求めるものに他ならない。このタイプの神秘主義は、神を単にその神性においてのみならず、神性と人間性との全体において捉え、受肉した神の人間性のうちに、かえって神の深みを見る。メヒティルド自身、長年多くの僧俗からの攻撃や迫害に曝されたと言われている。現実生活の内的・外的苦悩を、そのまま神との合一に高めるというのが、受苦神秘主義の立場である。しかもその立場は、苦しみを止むを得ない禍悪と諦めてそれを甘受するのではなく、むしろそれを自発的に進んで求める。
彼女には「神の疎外が神自身よりも好ましい」のである。神との合一の甘美よりも神の疎外の苦杯こそ、神を最も「甘美に飲む」ことであり、神に最も近いことよりも神に最も遠ざかることが、神に最も近いことなのである。彼女は神が自らを慰めようとするのを辞退する。彼女には慰めなきことのうちに真の慰めがある。何となれば、その苦しみが神の不可思議なるまた測り知れぬ賛美に外ならないからである。然も、「今や神は不可思議なる仕方で私と共にある。それは私には彼の疎外が彼自身よりも好ましいからである」といはれる如く、この疎外のうちに反つて真の合一が成り立ちうるのである。最も実生活的にして同時に最も不可思議(wunderlich)なる合一が起り得る。神の疎外とは霊が自らをどこまでも低く沈め、自らの卑しさの自覚に徹することであるが、それによつて反つて霊は不可思議な仕方で神と共にあり得るのである(140頁)。
ここを読むとき、私たちはマイスター・エックハルトの神秘主義の気圏に接近しつつあることがわかる。
明日からは、エックハルトとまさに同時代の女性神秘家マルグリット・ポレートの『単純な魂の鏡』を数回にわたって読む。