エックハルト神秘思想についてのこれまでの系譜学的祖述を踏まえた上で、媒介なしの神との合一から結果する「神化」(déification)を、エックハルトがどのように考えていたかを見ていこう。
まず強調しなくてはいけないことは、当時の異端運動「自由心霊派」に見られるような自己神化とエックハルトにおける神化とは、決定的に異なっているということである。前者においては、いわば己が望むままに、己の魂のうちに神のために空なる場所をもうけることによって自己神化が成就されうると考えられている。ところが、エックハルトは、被造的なものと非被造的なものとの接合が成り立つ場所が魂のうちに穿たれる聖化の恩寵の役割を強調する。
この場所を言い表すのに、エックハルトは暗喩等様々な表現を繰り出す。例えば、「小さな城塞」 (Bürgelîn)、「魂の煌き」(scintitilla animae, Vünkelin der Sêle)、「心の奥処」(abditum mentis)「秘められた根底」(Grûnt)、知性(Intellect)、あるいはまた「魂の至高なる処」(syndérèse)などがそうである。
人にあって神を受け入れることができる場所は、その最も内なる奥処である。そこは、魂の内の非被造的で被造不可能な場所である。この魂の場所は、そこにおいて神が神自身と出会う媒介の審級である。
このような思想は、ある個別的タイプについてのキリスト教的「範型主義」(exemplarisme)によっても支えられている。この範型主義はプラトン主義に由来する。イデアあるいは祖型は感覚的事物の範型であるとするこの考え方がキリスト教化されるとき、それは、あらゆる創造は創造主の思惟のうちにあらかじめ存在しており、創造されたすべてのものは創造に先立って永遠に神のうちに憩っているということを意味するようになる。
エックハルトにおける範型主義は、それによって各個人が神に結び付けられている個別的祖型を再び見出すことからなっている。この祖型は、いわば人における神的な部分である。それは魂の最も内奥に秘められている。そこにおいて、魂は、神の根底に合流する。そこには、もはや、被造物もなければ神もない。ただ、「唯一なる〈一〉」(einic Ein)があるのみ。
エティエンヌ・ジルソンは、その大著 La philosophie au Moyen Âge (初版1922,Payot, 1988) において、このエックハルトの範型主義について、明快な注解を示している。
Une telle doctrine conduisait droit à l’union de l’âme à Dieu par un effort pour se retrancher dans cette « citadelle de l’âme » où l’homme ne se distingue plus de Dieu, puisqu’il n’est plus lui-même que l’Un (p. 698).
このような教説は、この「魂の城塞」の中に立てこもる努力による魂の神への合一へと直ちに導いた。この魂の城塞において、人は、己自身であるよりも〈一〉なのであるから、もはや神とは区別されない。