内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(二十二)― 知性(vernünfticheit)こそ神の神殿である

2015-04-19 11:31:59 | 哲学

 エックハルトにおける知性の存在に対する優位は、『ヨハネによる福音書』第一章第一節「太初に言あり。言は神と偕にあり、言は神なりき」(『文語訳 新約聖書』、岩波文庫、2014年)をその根拠の一つとしている。存在はすでに被造物の顕現であるから、エックハルトは、被造物と造物主とを区別することに力を注ぐ。神を存在として語ることは、神的無限性をあまりにも限定することになり、その絶対的超越性を見損なうことになるからである。
 ところが、その後の議論の展開において、エックハルトは、存在と神との等価性を訴えているように見える。実際、エックハルトが「存在は神である」(esse est Deus)と主張するとき、在るところの存在は神の存在であると言おうとしている。
 『三部作』の「全般的序文」を見てみよう。「在るところのすべては、存在によって、存在から、在りうる或は現に在るという事実を得ている。それゆえ、もし存在が神以外の何ものかであるならば、事物は神以外の何ものかによって存在を得ていることになる」(omne quod est per esse et ab esse habet, quod sit sive quod est. Igitur si esse est aliud a deo, res ab alio habet esse quam a deo)。ところが、創造された諸事物は、その存在を神の存在から得ている。すべての「存在者」は神の存在のうちに在る。神なしでは、諸事物は存在しないであろう。しかし、神自身は存在の彼方にある。
 それゆえ、エックハルトは、『出エジプト記注解』の中の有名な一節「我は有りて在る者なり」(Ego sum qui sum)を、神の名についての問いに答えることの神による拒否と解釈している。それは、「否定の否定」(negatio negationis)であり、〈一〉であることを否定的に言う仕方である(Unum negative dictum)と考えるのである。
 マイモニデスに依拠しながら、エックハルトは、次のように神と存在とを区別する。「否定の否定」によって、神的本質の純粋性が示されている、なぜなら、神において有るのは、存在ではなく、存在の純粋性(puritas essendi)だからである。
 ここで、エックハルトは、ドン・スコトゥス的な「存在の一義性」のテーゼに対立している。被造物の存在と神の存在とについて一義的に存在を語ることはできない、なぜなら、顕現した世界と創造主との間には深淵があるからである。ただし、この深淵は、神秘的合一において人が「神において神となる」(devenir Dieu en Dieu)とき、これを越えることができる。これがエックハルトの主張である。
 エックハルトにおける神の存在性と超存在性(非存在性)との区別と関係については、エックハルトの述作の中に、神の非存在論(méontologie)の立場と〈存在-神〉論的表現との間の矛盾あるいは非連続を見たり、後者から前者への転回を見たりするなど、研究者たちの間で解釈が分かれている。しかし、神はその本質において存在の彼方にある、というテーゼは、エックハルトにおいて、やはり、根本的なテーゼであると私たちには思われる。
 ドイツ語説教九(全集版説教番号)で、エックハルトは、神をその存在において捉えるのは、神をその前庭において捉えることであるが、その神殿の内部では、神は知性(vernünfticheit)であると言う。「知性こそ神の神殿である。神が最も本来的に住いするのは、その神殿、すなわち知性をおいて他にない」(『エックハルト説教集』、田島照久編訳、岩波文庫、1990年、57-58頁)。同じ説教の少し前のところを引く。

どの事物もその有の内で働く。どんな事物もその有を超えて働くことはできない。火は木以外のどんなところにおいても働くことはできない。しかし神が活動しえる場にあっては、有を超えて神は働くのである。つまり神は非有において働く。まだ有が存在しなかったときに、神は働いたのである。つまり、有がいまだ存在しなかったときに神は有をあらしめたのであった。考えの足らない師たちは、神はひとつの純粋な有であると語る。最高の天使が蚊をはるかに超えているように、神は有をはるかに高く超えているのである。もしわたしが神を有であると名づけたならば、それは太陽を色あせた、あるいは黒いと言おうとするようなものであって、神に対して正しからざることを働くことになろう。神はあれでもなくこれでもない(55頁)。