エックハルトは、ラテン語著作『三部作』(Opus tripartitum)の全般的序文とその第二部「命題論集」(Opus propositionum)の序文の中で、「存在は神である」(esse est Deus)と明言している。これは、それまでの伝統的な命題「神は存在である」(Deus est esse)を転倒させたものである。この限りでは、エックハルトは、新プラトン主義的〈一者〉論の系譜によりも、トマス・アクィナスの存在論の系譜に連なるかに見える。しかし、エックハルトにおいては、〈一〉あるいは神性の思想が存在の思想に対して優位を占める。後者は前者に依存すると考えられているからである。
一三〇二年から一三〇三年にかけてのパリでの第一回目の神学教授期におけるエックハルトの討論に関しては、『パリ討論集』(Quaestiones Parisienses)が残されており、その中には、エックハルトとフランチェスコ会士ゴンザウルスとの討論記録が収録されている。その中で、エックハルトは、神における知性(知ること)の存在(在ること)に対する優位を主張している。「神は、在るがゆえに知解するのではなくて、知解するがゆえに在る」(Deus non intelligit quia est, sed est quia intelligit)と言う。それゆえ、神にあっては、「知解が存在の根拠であって」(est ipsum intelligere fundamentum ipsius esse)、その逆ではない。
神は知性である(Dieu est Intellect)。神性が存在を知るのであって、この意味で、神性は、〈言葉〉あるいは〈知性〉として、存在に先立つ。この知性に優位を置く思想は、新プラトン主義的思想であり、その第二実体(位格)の考え方に対応している、つまり、知性あるいは精神は、存在に対しては優位に立つが、〈一〉(一者)に対しては下位に位置する、という考え方である。
〈在る〉(esse)-〈生きる〉(vivere)-〈知解する〉(intelligere)という、中世においてまさに古典的な三位格について、エックハルトは、〈知解する〉を最上位に置く。なぜなら、知解が最も非限定なものとして最高位を占めると考えるからである。それゆえ、この三位格をキリスト教伝来の三位に適用する際、エックハルトは、父なる神に〈知解する〉を、神の子に〈生きる〉を、そして聖霊に〈在る〉をそれぞれ配当する。
〈知解する〉は、かくして、エックハルトにおいて、もっとも限定を受けること少ない概念として位置づけられ、それゆえに、神性の超越性をもっともよく説明することができると考えられている。
しかし、この〈知解する〉も、最終的には、さらに上位を占める〈一〉(一者)に従属させられるのは、まさに新プラトン主義の場合と同様である。
ここまでの祖述は、Benoît Beyer de Ryke の Maître Eckhart. Une mystique du détachement (Ousia, 2000) の八七-八八頁の記述に基づいているが、それとは異なった解釈が上田閑照『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻、一五〇頁)に示さているので、その部分を引用しておく。
エックハルトが神を「存在の彼方」とするところは確かにプロチン、プロクロスの新プラトン主義的ではあるが、その「存在の彼方」を知性認識とするのは、新プラトン主義とはちがってエックハルト独特の立場である(新プラトン主義においては知性に当る思惟は、未だ思惟と思惟されるものとの二元性を含んでいる故に一者の下位に置かれている)。