内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(十二)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(五)

2015-04-09 18:58:14 | 哲学

 G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988  に依拠しながら、昨日の記事の最後に引用した一節に見られた、解放された魂と愛なる神との関係についての理解を深めていこう。
 〈魂〉は、かつては細心の注意をもって従っていた、服従のための諸々の外的規範をもはや必要としない。なぜなら、〈愛〉なる神のうちにすっかり受け入れられた〈魂〉は、向後、神意の下にまったく受動的であり、神意は〈魂〉のうちで「魂なし」に働く。つまり、〈魂〉自ら率先して何か行うことはもういっさいないのである。この境位を、マルグリットは、「無為なる信によって救われる」(se sauver de foi sans œuvre)と言い表す。この大膽極まりなく誤解の危険に満ちた言表こそ、ライン河流域及びフランドル地方の神秘主義(la mystique rhéno-flamande)の大きな主題である「神受」(le pâtir Dieu)の先駆的な表現なのである。
 « pâtir » というフランス語は、今日ではもはや古風な表現である。使われるとしても、自動詞として前置詞 de を伴って「~に苦しむ」という意味になる。しかも、その苦しみは、過誤によって引き起こされたという含意を有する。ところが、上掲の表現では、他動詞として用いられ、神が目的格補語になっている。 ラテン語の « pati » の「苦しむ、被る、耐える」という意味を受け継いではいるものの、神秘主義的経験を表現するためにこの語が用いられるときには、それは、「平安で不可思議な受動的瞑想の中にある」という意味になり、名詞化されれば「受動」そのものであり、自ら働く「自動」(agir)に対立する。
 では、〈魂〉における「神受」とは、いったいどのような境位のことなのか。『鏡』の第八十四章における〈魂〉の言葉に耳を傾けてみよう。

Cette œuvre est l’affaire de Dieu qui l’opère en moi. Je ne lui dois aucune œuvre puisque c’est lui-même qui opère en moi. D’ailleurs, si j’y mettais du mien, je déferais son œuvre.

この業は、私のうちでそれをなさる神の御業なのです。私は神にどのような業も負うてはおりません。なぜなら、言うまでもなく、私のうちで働かれるのは神ご自身だからです。そもそも、もし私がそれに手出しをしたならば、その御業を乱してしまうことになるでしょう。

 〈魂〉と〈愛〉とは、これらの高貴なる真理を〈理性〉に説明しようと試みる。しかし、目の前につきつけられたそれら逆説的真理にすっかり動転し、衝撃を受けてしまった〈理性〉は、とうとう死んでしまう。かくして、神のより高次な理解に場所を譲る。それと並行して、〈魂〉は、諸徳目に暇を取らせ、それら以上の高みへと上り、〈愛〉の至高の自由へ至ろうとする。