内的自己対話-川の畔のささめごと

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「離脱・放下」攷(四)― 神に酔える中世女性神秘家たち(三)

2015-04-01 17:17:21 | 哲学

 G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988.
 この二四〇頁余の小著は、ヨーロッパ中世期の代表的な女性神秘家たちの生涯と主な作品を紹介しつつ、失われたキリスト教女性史に新しい光を当てようとする好著である。以下は、その結論部分のおよその内容を伝えつつ、そこに私見をすべりこませた「自由訳」である。

 ヨーロッパ中世を通じて、スコラ学者たちによって無視されるか、過小評価され、今日もなお、まだ十分には再評価されているとは言いがたい、神秘主義の母性的表現技法は、十二世紀から十四世紀にかけて、ヨーロッパ中世の修道女たちや独自の共同生活体を形成していたベギン会の女性たちによって、いわば霊的に継承され、花開いていった。それらの女性たちが遺した書簡・頌歌・論述等の中には、スコラの神学者や論理学者たちによって歪められ、忘れられた、古代キリスト教に淵源する神秘体験の、最も洗練された、それゆえ最も貴重な表現が保たれている。
 そこに私たちが見出すのは、〈知性〉に対する〈愛〉の優位であり、この〈愛〉の優位こそが中世の終焉と近代の到来を告げ知らせる、「女」声による讃歌であった。ところが、この〈愛〉の優位は、近代思想史において、しばしば主意主義へと転じていってしまう。しかし、これは、中世の女性神秘家たちにとって、まったくその意に反する方向性であった。
 なぜなら、彼女たちにとって、正統的な観想修道会士たちにとってと同様、何よりも大切なことは、神に対して「受動的」(受容的)であることであって、能動的であることではないからである。この受動性こそが、魂を単純化し、無数の欲動 ― たとえそれが聖なるものであり、聖霊によってであっても ― から魂を解放し、非意志において、つまり神の意志のみにおいて、魂を神に合一させると、彼女たちは自らの神秘体験に基づいて主張しているのである。
 この受動性(受容性)こそ、古代ギリシア教父たちからアヴィラの聖テレサ(1515-1582)や十字架のヨハネ(1542-1591)にまで連綿と継承された西洋神秘主義の最も深い処に息づく本性である。
 〈愛〉の夜における魂の神との出逢いを歌った十字架のヨハネは、いわゆる「善き」行いの幻想を警戒するように私たちに注意を促す。魂がまずもって真に神を受容し、神において神に変えられることがなければ、いかなる「能動的・積極的な」善行も私たちを神から遠ざけることにしかならないからである。
 このような「受動性(受容性)」の伝統が、人間の魂に、その「本質」において、つまり、その〈絶対者〉との最も内密な繋がりにおいて、触れているのである。エックハルトが東洋人たちによっても魂の導師として認められているのも、この「受動性(受容性)」を表現することができているからであろう。
 実際、エックハルトは、ドミニコ会の伝統に則って、知性を象徴する「男」性が魂の最も高貴な名であることを一旦は言明した後、ライン河流域・フランドル地方神秘主義の影響下、人間の最も高貴な名は、実のところ、「女」性である、なぜなら、その名が神に対する受容性を表現しているからであると主張するに至るのである。
 活動に優位を置く主意主義的な歴史の中で忘却されたこの「非意志」の重要性を再発見することは、ヨーロッパ文明にとって喫緊の課題である。その再発見によって、私たちの世界は、根本的な現実性の深い理解を保つことができた諸伝統と調和を保ちつつ、精神的かつ人間的な均衡を再び取り戻すことを期待することができるようになるだろう。
 「受動性(受容性)」という本質的な「女」性的価値への回帰は、私たちの文明の生き残りのために不可欠であると思われる。