内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(十三)― マルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』(六)

2015-04-10 17:30:52 | 哲学

 G. Epiney-Burgard et E. Zum Brunn, Femmes Troubadours de Dieu, Éditions Brepols, 1988  には、昨日の記事で参照した箇所のすぐ後に、放下のうちに憩う平安に至るまでの魂の長い闘いにマルグリットが与えることができた表現について、Peter Dronke (1934-)の Women Writers of the Middle Ages. A Critical study of Textes from Perpetua to Marguerite Porete, Cambrige, 1984 からのかなり長い引用がある(p. 182-183)。中世ラテン抒情文学の世界的権威である Dronke の言葉に、私たちも耳を傾けてみよう。

抒情的でほとんど劇的な表現が全体の構成の中にしっかりと統合されている。長く複雑な対話構成の中で、マルグリットは、語り手の交替を度々行う。この点で、彼女は、マグデブルクのメヒティルドよりも、ラモン・リュイにむしろ近い。しかしながら、メヒティルドの『神性の流れる光』の中でと同じように、魂の内的な力と天来の力とをマルグリットがそれぞれ投射した「登場人物」間のやりとりや争いから、自ずと劇的な緊張が生まれてくることがある。そのとき、この点でも、メヒティルドの場合と同様なのだが、それらの諸力にあって主導権を握っているのは、「愛婦人」(Dame Amour)である。もう一つのマルグリットとメヒティルドとの類似点は、抒情の持続性と呼べるようなもののうちにある。その持続性は、『神性の流れる光』でと同じように、『鏡』でも、リズミカルな散文からより緊密な韻を踏んだ詞章へ、そして完全に詩的な形式にまで至る。

 文学作品としての『鏡』の基本構想は、当時の宮廷恋愛文学の形式とそこで典型的な高貴なる婦人への騎士の献身的な愛というモデルとに依拠している。高貴なる婦人が課すすべての試練に耐えて愛の成就に至る騎士という構図に、〈愛〉と〈魂〉との関係を当てはめようとしている。騎士なる〈魂〉にとって、「精妙なる〈愛〉」(Fine Amour)そのものが最終目的なのである。『鏡』は、無化された単純な〈魂〉について、それは「精妙なる〈愛〉」が求めるところのものと繰り返す。この「精妙なる〈愛〉」に固有な特徴は、〈喜び〉である。
 この〈喜び〉の表現にマルグリットの独創性が煌めく。以下の引用は、第二十八章「この〈魂〉は喜びの海を如何に泳ぐか」の冒頭である。

Cette Ame nage en la mer de joie, en la mer de délices, fluent et dévalant de la Divinité, et toutefois ne ressent nulle joie, car elle-même est joie et nage et flue en joie, sans éprouver nulle joie, car elle demeure en Joie et Joie demeure en elle ; elle est elle-même joie par la vertu de Joie, qui l’a muée en elle.

この〈魂〉は喜びの海を泳ぐ。神性より流れ来る、甘美で流麗な海に泳ぐ。しかしながら、少しも喜びを感じることはない。なぜなら、魂自身が喜びなのであり、喜びに泳ぎ、流れ、どんな喜びも身に覚えることはないから。なぜというに、魂は〈喜び〉のうちにとどまり、〈喜び〉は魂のうちにとどまるから。魂自身が、己をそのうちで喜びに変えてくれた〈喜び〉のおかげで、喜びそのものなのである。