マルグリット・ポレートの『単純な魂の鏡』を読んで人々がとりわけ心打たれたのは、著者の精神の精妙さであった。理性の導きによる論理的な議論の順序に従ってではなく、眩いばかりのイメージを次から次へと現出させることで、一つの真実の多側面をいわば鏡の中に映しだすようにして、作品は展開していく。
その一つの真実とは、作者マルグリット自身の魂を解放・純化した真実であり、その真実が読み手あるいは聴き手の魂をも解放・純化することを願って、この作品は書き継がれていったのである。
一つの真実の多彩な側面を次から次へと言葉の明るみのうちに引き出すことによって、作者は、読み手あるいは聴き手に作品の中心的主題を理解させようとする。その中心的主題とは、魂の解放である。この解放は、魂が神のうちで愛によって無化されることによって、そしてまさにそのことによって魂が神のうちで神になることによって現成する。
この魂の解放という主題は、マルグリットにかぎらず、ベギン会の他の神秘家たちによっても、当時の宮廷恋愛文学の言語で表現されている。この表現方法は、彼女たちの作品が同時代人に受け入れられるために採られた一つの「戦略」だったとも言うことができる。〈理性〉〈悟性〉〈愛(なる夫人)〉〈魂〉〈礼節〉〈徳目〉〈信の光〉などが人格化されることで、それらが一つの舞台の上の「登場人物」たちとして、互いに問いかけ、応える。その言葉のやりとりを通じて、〈魂〉に根本的な位格変容が引き起こされる。
その一例として、『鏡』の中でも特に有名な一節を読んでみよう。
『鏡』の第二十一章で、〈理性〉は、なぜ〈魂〉は〈諸徳目〉に別れを告げたのか、と〈愛〉に問いを投げかける。それに対して、〈愛〉は次のように答える。
かつての主人たる〈諸徳目〉から多くのことを学び、今や主人以上のものとなった〈魂〉は、もはや〈諸徳目〉に仕える身ではなく、〈諸徳目〉の主人である〈愛〉にのみ仕える。ところが、この〈愛〉によって〈愛〉のうちですっかり変容されて〈愛〉と一つになった〈魂〉は、もはや己自身にさえ属してはいない。
〈愛〉のこの答えに対して、〈理性〉は、「〈愛〉よ、あなたもまた私たち徳目の仲間ではないのですか」と、さらに問いかける。この章は、それに対する〈愛〉なる夫人(Dame Amour 古フランス語では、amour は女性名詞。マルグリットは、作中で名詞の性に応じて様々な人格化を行っている)の次のような答えで締め括られている。
まず、Claude Louis-Combet の現代フランス語訳を掲げ、その後に拙訳を付す。
Je suis Dieu, car Amour est Dieu et Dieu est Amour, et cette Ame est Dieu par condition d’Amour, et je suis Dieu par nature divine et cette Ame l’est par droiture d’Amour. Ainsi cette précieuse amie de moi est-elle instruite et conduite par moi sans elle, car elle est transformée en moi et se nourrit de moi.
私は神です。なぜなら愛は神であり、神は愛だからです。そして、この魂は、愛のうちで神となっているのです。私はその神性において神ですが、この魂は愛の正しさによって神なのです。このようにして、私のこの大切な友は教えを受け、己なしに、私によって、動かされているのです。というのも、彼女(=魂)は、私のうちで私に変容させられており、私を糧としているからなのです。