内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(二十)― 神性(Gottheit)と神(Gott)との区別と関係

2015-04-17 17:26:20 | 哲学

 エックハルトは、「神性(Gottheit)」と「神(Gott)」とを区別する。後者は前者に全面的に依存する。なぜなら、神性こそ、そこからすべてが発出する〈一〉だからである。神的本質それ自体は認識不可能であり、それについては、否定によって、あらゆる多数性・複数性を排除することによってしか喚起することができない。この意味で、〈神〉は「神」の彼方にある。それは超越的であり、言表不可能なので、ニコラウス・クザーヌスが言うところの「学識ある無知(docte ignorance)」を通じてしか接近することができない。「神」とは、被造物との関係に入った神性である。それは、三位一体として顕現し、啓示された神であり、以来、認識可能となる。
 エックハルトは、人間なしには神は存在しない、なぜなら、神性が神となるのは被造物があるときだけだからである、とまで言うことができた。つまり、被造物がまったく存在しなければ、神は存在しないであろう、と言い切ったのである。神性が否定的認識(connaissance apophatique)であるのに対して、神は肯定的認識(connaissance cataphatique)の対象である。
 この神性と神との区別およびそれぞれに対する認識方法の違いについての神学的言説の起源は古い。それは、偽ディオニュシウス・アレオパジタ(五世紀頃のシリアの神学者)にまで遡る。そして、エックハルトに若干遅れて、しかしエックハルトとはまったく独立に、東方のビザンティン神学において、グレゴリオス・パラマス(1296-1359)によって、認識不可能な神の超本質と神から発出する認識可能で可視的なエネルギーの区別という形で大きく発展させられる。神は、その超本質においては接近不可能だが、神はその発出したエネルギーの諸形態において関与可能(participable)となる。
 エックハルトは、ディオニュシウス的否定神学の系譜にはっきりと連なっている。この神学によれば、神は、いかにしても言い表しがたく、それにあてがわれたあらゆる名前を取り払うことによってしか到達することができない。このような否定過程の果てに来るのが神的無であるから、この神的無は、神の非在とは何の関係もない。無なる神は、無条件的・超越的神なのであり、顕現されたものの無である。つまり、神を超えた神性である。それは、あらゆるイメージの彼方にあり、いわばイメージなき存在である。
 神あるいは神性を無と述定することによって、エックハルトは、神は存在しないと言いたいのではない。神は、存在でも無でもない、より正確には、存在と無の彼方にあり、在るもの無いもののあらゆる表象に先立ち、あらゆる存在論的限定に先立っている、と言いたいのである。存在が何ものかであるとすれば、神は無であるというのは、神は、顕現という仕方で表象されうるものの彼方にある、ということである。神性としての神は、まったく他なるものなのである。だから、神性は、否定的認識の対象にしかなりえず、類推的認識の対象にはなりえない。