西欧中世の女性神秘家列伝の劈頭を飾るのは、通常ビンゲンのヒルデガルト(1098-1179)であるが、エックハルトとは生年に一世紀半以上の懸隔があり、直接的な影響関係を見出すこともできない(エックハルトの直弟子の一人タウラーの説教には明示的な言及があるが)ので、拙ブログでの今回の一連の記事の中では取り上げない。
ただ一言付け加えておくと、ビンゲンのヒルデガルトについては、ドイツを中心にすでに汗牛充棟ただならぬ研究が積み重ねられているのは言うまでもないが、日本でも、ここ十数年、自然学・治療学の分野を主としてヒルデガルトの著作が相当数訳されている。欧米の研究者の手になる評伝や研究書の翻訳も数冊出版されており、種村季弘の『ビンゲンのヒルデガルトの世界』によって、その多岐にわたる教説は、一部の熱心な信奉者ばかりでなく、かなり広く知られてもいるようである。ただ、私自身は、そのいずれの文献も未見である。
エックハルトと時代的に重なり、かつ歴史的文脈において接点を見出すことができ、さらにはその思想内容にある親近性を認めることができる最初の重要な女性神秘家は、マグデブルクのメヒティルド(生没年はいずれも推定で、しかもかなりの幅があるが、生年は1207から1210の間、没年は1282から1294の間と推定されている)である。
その伝記的事実としては、ごくわずかのことしか知られておらず、しかも研究者たちによる推定の域を出ない部分も少なくない。
出自に関しては、メヒティルドの著作内の幼少期についての証言、それを傍証する周辺資料から、彼女が裕福な家庭の子女であり、それにふさわしい物質的な富と良質の教育を受けたことは推定しうる。しかし、彼女についての聖女伝説がそう望むように、貴族階級に属していたかどうかについては、今もなお、留保せざるをえないようである。その主たる理由の一つは、彼女を直接知っていたであろう著者たちが、その著作で彼女に言及する際に、その出自が高貴であるとは言明していないことである。なぜこの不言及が彼女の出自が高貴であることを疑う理由になるかというと、これは当時の習慣に反しており、彼女がもし貴族の出であれば、必ずそのことに言及していたはずだからである。
それゆえ、昨日紹介した Femmes troubadours de Dieu(1988)のメヒティルドの生涯の紹介に割かれた章の冒頭では、「彼女が高貴の出であった可能性は低い」(« il est peu probable qu’elle fût d’origne noble »)と推定している(p. 67)。しかし、『神性の流れる光』の仏訳 La lumière fluente de la Divinité, traduit de l’allemand par Waltraud Verlaguet, Éditions Jérôme Millon, 2001 の訳者による前書きによると、「裕福で、おそらくは高貴な一族の生まれ」(« de parents riches et probablement nobles »)となっており(p. 5)、Encyclopédie des mystiques rhénans d’Eckhart à Nicolas des Cues et leur récetpion, Cerf, 2011 のメヒティルドの項では、「おそらく騎士階級の貴族の家庭の出」(« sans doute originaire d’une famille noble de chevaliers »)と、推定がより詳しくなっている。このような推定の変化は、この三つの文献の出版年から見て、その間の研究の進展によるものと推定できる。
日本語の文献としては、『神性の流れる光』の香田芳樹による全訳が創文社の『ドイツ神秘主義叢書Ⅰ』として一九九九年に刊行されている。これも私は未見であるが、その中には当然伝記的紹介もあるだろう。
私の手元にある日本語文献で、メヒティルドについてまとまった考察が見られるのは、西谷啓治「マグデブルクのメヒティルド」(『神と絶対無』(1948)が初出、『西谷啓治著作集』第七巻(1987)に再録)のみ。『上田閑照集』第七巻『マイスター・エックハルト』の中のメヒティルドの教説に関する言及も、この西谷の論文に依拠している。この西谷論文の冒頭には、メヒティルドが「学問の素養もない一介のベグィネ」と紹介されているが、このような見方は、上に見たような今日の研究結果からすれば、もはや維持しがたいだろう。
メヒティルドの出身地は、ドイツのミッテルマルク地方で、これはエックハルトの出身地エルフルトを含む地方と隣接している。彼女がその生涯の大半を過ごしたのは、マグデブルクの街で、それゆえに「マグデブルクのメヒティルド」と呼ばれるわけである。彼女は、一二三〇年には、家族の元を離れ、マグデブルクで初期のベギン会に属し、その宗教的共同生活を始めていたことが確認されている。このマグデブルクのベキネとしての生活は、苦難に満ちたもので、多くの迫害と身体的不調に悩まされたもののようである。彼女自身によれば、その生活は、神の召命にしたがっての「流刑生活」であった。
これは、しかし、メヒティルド個人固有の生活的・身体的条件に還元されうる問題ではなく、ベギン会そのもののあり方とも密接に絡み合っている。なぜなら、ベギン会とは、教会の保護の外にあって、都市内で女性たちだけで共同生活を送りながら、互選で選ばれた長の指示の下、彼女たち自身の理解した「福音の教えに従って清貧と貞潔を守り、手仕事をしながら、病人や貧者や孤児の世話に尽くした」(『上田閑照集』第七巻、269頁)、新しい宗教的共同生活の形態で、そこには、教会当局から見れば、教義からの逸脱、さらには異端の危険がつねに孕まれていたからである。
ヨーロッパ中世都市部でのこのような生活は、一般の世俗生活の仕組みから見ても、教会の組織からも見ても、つまり二重の意味で周縁的であった。メヒティルドは、それゆえ、いかなる宗教的権威も社会的保護もあてにすることができなかったのである(Voir La lumière fluente de la Divinité, op. cit., p. 6)。
都市部におけるベギン会のこのような発展は、社会史的側面からも説明されているが、その点については、上田閑照上掲書『マイスター・エックハルト』にも引用されている、阿部謹也『中世の窓から』(朝日選書、一九九三年。あるいは、筑摩書房『阿部謹也著作集〈4〉』、二〇〇〇年)を参照されたし。
このベギン会は、十三世紀のドイツ・フランス・オランダ・ベルギーにおいて、驚くべき速度と規模で広がっていく。先回りをして言っておけば、一三一四年に、南ドイツ管区テウトニアにおけるその監視と教導をドミニコ会総長から託され、ストラスブールに居を構えたのがエックハルトであった。
さて、メヒティルドに戻ろう。
メヒティルド自身の証言によると、十二歳のときに最初の見神あるいは「聖霊の訪れ」を体験している。その後も繰り返された見神体験を、しかし、メヒティルドは、長年けっして口外しなかった。一二五〇年、つまり四〇才を過ぎてから、精神的教導師であったドミニコ会士ハレのアンリの勧めにより、その助言に従いながら、自らの神秘的体験を、彼女にとっての母語である北東部ドイツの方言で、以後数十年に渡って、綴っていくことになる。「ドイツ中世の女性神秘主義の最も光輝ある作品とされている」(上田閑照前掲書271頁)『神性の流れる光』はかくして生まれたのである。