今日の学部三年の必修科目「近世文学史」は、浮世草子がテーマ。主役は、言わずと知れた井原西鶴。一コマ全部をその作品紹介に充てる。それで十分なわけではもちろんないけれど、後期の授業回数からすれば、それが穏当なところ(因みに、来週と再来週は俳諧史。その後には浄瑠璃・歌舞伎と続く)。
型通り、好色物、町人物、武家物、雑話物の順に、西鶴の作品がもたらしたまったく新しい文学世界とそれを展開する独自の文体について説明する。でも、作品を読まずにこんなこと解説して何になるんだろう。
近世文学史に限らないが、文学史を教えていて思う、ただ時系列にそってジャンルごとに書誌的な解説や伝記的な紹介だけをするのはつまらない、と。教える方も教わる方も。それは、あたかも作品が一枚も展示されてなくてただ説明書きのパネルだけが並べてある美術館を見学するようなものである。
自分の専門からすれば、ぐっと話の抽象度を上げて、日本文学に見られる表現史・思想史・精神史の講義にしてしまいたいところだが、これは学生たちからすれば、もう「絶対的に消化しがたい」(« absolument indigeste !» )。
そこでどうするか。二年生の場合は、まだ古典語の学習さえ始めていないが、だからこそ、それでも少しは読めるような易しい古典を読ませる。一昨日は『古今和歌集』「仮名序」を読ませてから、著名な古今集歌十五首を選んで、仏語訳付でそれぞれの歌が表現しているイメージを掴ませた。三年生は前期から古典文法入門の授業を受けている。後期になれば、いくらかは古文が読めようになりはじめている。だから、もう少し要求度を高くしてもいいだろう。
西鶴の主要作品については信頼のおける仏訳が出ているが、そっちを先に読ませてしまったのではネタバレみたいで面白くない。そこで今日は、学生たちにいきなり原文を与え、それを私が声に出して読み、解説と仏訳をその場で口頭で織り込むことで、彼らを作品世界に入り込ませることを試みた。
そんな意図から選んだのが、西鶴最晩年の傑作で没後遺稿として出版された『西鶴置土産』の中の一話「人には棒振り虫同然に思はれ」。小学館の日本古典文学全集版で六頁足らずの掌編であるというのも選んだ理由の一つ。筑摩書房の『日本古典文学読本』(一九八八年)にも全文収められている。そのコピーを学生たちに渡した。
一節読んでは、語彙説明・地誌風習解説とおよその仏訳を付け、さらには当時の遊里の掟にまで説き及び、かつては吉原でも名の知られた大尽、伊勢町の月夜の利左衛門が、惚れた女郎吉州を身受けするために身代を潰し、今では金魚の餌のぼうふらを毎日取り集めては金魚屋に売って僅かばかりの日銭を稼ぐことで糊口を凌ぐ、見るも哀れな身の上となり、そんな姿にかつての遊び仲間三人が出くわし、憐憫の情抑えがたく言葉を取り交わす場面から、「ご秘蔵のむすこ」に着替えの一枚買ってやれない惨めさに夫婦揃って「前後も覚えず涙になりぬ」場面などを経て、最後の場面 ― 利左衛門一家の窮状を救おうとかつての遊び仲間三人が出し合ったお金、一度は利左衛門から突き返されたお金を内儀に託そうと、人を使って利左衛門の茅屋まで行かせてみれば、すでに立ち退き空き家となっており、八方手を尽くすが行方知れず ― へと至り、これをきっかけとして「思へば女郎狂ひも迷ひの種」とこの三人も女郎買いをきっぱりとやめ、そのおかげで当時吉原で評判の三女郎、薄雲・若山・一学は大分損をしたとの世間の評判であったという最後の落ちまで、およそ三十分、あたかも講談師のごとくに一息に語って、「今日の講義はこれにて仕舞」(« Aujourd’hui, on s’arrête là. »)と幕を引いたのではあった。