春なれや名もなき山の薄霞
『野ざらし紀行』中の一句。貞享二年(1685)、伊勢から奈良に向かう途上での作。結句の別案に「朝霞」とあり、こちらを取る評者もある。それら評者の中には、各句がすべて母音 « a » を含む音韻で始まっており、かつ各句中にも « a » 音が複数含まれていることがもたらす音楽的効果を強調する者もある。しかし、ここでは芭蕉自身が定案とした「薄霞」の方を取る。
春が来たのか、そう気づかせるのは、名をよく知られた山に霞が立てば、それが春の訪れだ、とする古典の知識ではなく、山の上に薄霞が棚引く景色の立ち現われそのものである。その立ち現われは、一切の名に先立つ造花の妙である。