『王朝百首』の掉尾を飾るのは、藤原雅經(一一七〇-一二二一)の一首。『新古今和歌集』冬の部に入撰。雅經自身、『新古今』撰者五人のうちの一人。同歌集が初出で、上掲歌を含めて二十二首入撰。
昨日の實朝の歌が九十九番目であったから、『王朝百首』の最後の二首はいずれも「はかなし」を含んでいることになる。冬の〈はかなさ〉は、春散る花の華やぎのうちの〈儚さ〉と違って、冷え冷えとして果てしもない。
上掲歌も、なんと侘びしく寂しい冬の歌であることか。「はかなしや」と初句でいきなり嘆息する。その後に詠まれているのは、冬の景色の一齣ではなく、いつ終わるとも知れない、数えきれない孤独な夜の繰り返しである。鴛鴦が一羽むなしく足を「掻く」のを、独り寝の数を数えて「書く」に掛ける。水の上に書くという最初からわかっている空しさと書ききれないほどの繰り返しから燻る憂鬱とに塗り込められた心の冬景色。
「ゆく水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」(『古今和歌集』戀一・読人しらず、『伊勢物語』五〇段)を本歌とする。「鴛鴦の独り寝」には、「さ筵に思ひこそやれ笹の葉にさゆる霜夜のをしのひとり寢」(『金葉和歌集』冬・藤原顕季)の先例がある。
塚本邦雄の鑑賞文も深沈としたものである(三一九頁)。
眞冬の水の上に鴛鴦の一羽が浮かび獨寢の夜夜のその數を書くやうに筋を引き、引き疲れてゐる空しさを、作者はもの憂い目で見つめている。
冷やかに侘びしい心象風景が、細細と顫へ波立つやうな調べに乗りまことにうつくしい一首を成す。初句A音の連續から結句O音I音の交互配置まで、五句三十一音の響きは歌の描き出す幻像と至妙な脈絡を見せ、雅經の才質が十二分に盡くされた秀歌である。
響きが美しければ美しいほど、儚さもそれだけ深く心に染み渡る。
この一首とともに『王朝百首』の歌の絵巻は幕を閉じる。