内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

失われつつある「文章に対する厳しさ」― 中江兆民『一年有半』を読みながら考えたこと

2016-01-30 19:04:08 | 読游摘録

 中江兆民『一年有半』の中に「欧洲人の文章」と題された一節がある。
 「欧洲人文章極て厳なり」という一文で始まるこの一節は、欧州人がいかに文章に対して厳しく、たとえ古大家の文章だろうが、間違いがあれば、後の世代はけっしてこれを看過せず、それを注で指摘した名文集を子どもたちに与えて教育すること、学校で使う教科書にはこの種の指示が甚だ多いこと、それゆえ仏語の文章はますます「雅醇に赴く」こと、日常言語であっても、子どもたちが間違った言葉遣いをすれば直ちに両親がこれを矯正すること、結果として、「演説談話のますます典則ある」ものとなることなどが述べられている。
 「欧洲人」とは言っているが、兆民は自分のフランス留学体験を基にこれらのことを述べているから、実際は主に十九世紀後半のフランスのことである。今日では、フランスでもこのような伝統はおおかた失われてしまっている。このような伝統が数世代以上に渡って守られている家はもうごく少数派だと言わざるを得ないであろう(誰ですか、それも IMIN のせいだと言いかけているのは?)。
 ただ、兆民の文章を読んでいて思い出したことがある。
 それはもう今から十数年前のことだが、自宅に知人とそのお嬢さんを招待したことがあった。そのお嬢さんは中学生だったが、私の本棚を眺めていて、「ちょっとこの本見てもいいですか」と聞くので、どの本だろうかと思ったら、それがディドロ著作集だったので、ちょっと驚いて、「もうそんな本読むの」と聞いたら、学校の「フランス語」の授業でディドロを読んでいるところとのことだった。
 同じようなことだが、やはり十年数前にパリで中学生の男の子の日本語の家庭教師をしていたとき、その子の本棚にはモンテーニュの『エセー』の撰文集が並んでいたので、「学校で読むの」と聞いたら、そうだという。私が来るといつも彼の部屋に入ってきて勉強中私の足元に寝そべっている飼い犬のレトリーバーをからかう方が勉強より好きな彼ではあったが。
 兆民の文章にも、大家の例として、ボシュエ、フェヌロン、ヴォルテール、モンテスキューの名が並んでいる。そこにさらにデカルト、パスカル、ルソーなどを付け加えることもできるだろう。
 私の本棚からディドロを取り出そうとした中学生のお嬢さんを見たときには、これはかなわんなあと思ったものである。ディドロの時代から二百五十年以上の、パスカルの時代まで遡れば三百五十年以上の連続性がある言語の中で中学生の頃から思考と表現を訓練されるのだから、これは外国人には真似のしようがない。
 翻って日本のことを思えば、漢語を多用する兆民の文章にしてから、今の中学生どころか、大学生にだってもうよく読めないだろう。漱石・鴎外・露伴にしても、彼らにはもう古文に見えるのではないか。
 参考までに、当該の兆民の文章の仏訳(Un an et demi, traduit par Romain Jourdan, Les Belles Lettres, 2011, p. 74)を掲げておこう。これはもう実に平明達意なフランス語で、小学生にだってわかる文章だ。

La littérature occidentale est très rigoureuse. Lorsqu’un texte, même écrit par un grand auteur classique, contient des erreurs ou des fautes de style, les générations suivantes, plutôt que de laisser le texte tel quel, traquent chacune d’entre elles et les expliquent à leurs élèves, si bien que les marges des manuels scolaires fourmillent d’indications de ce genre. Dans le cas de la France, même des grands noms comme Bossuet, Fénelon, Voltaire ou Montesquieu n’échappent pas aux nombreuses critiques de ce genre. Cela a pour effet d’améliorer la qualité de la langue. Même dans les échanges de tous les jours, lorsqu’un enfant fait une erreur, ses parents le corrigent aussitôt. C’est ainsi que s’édifient les règles de la langue parlée.

 現在の日本の教育は、軽佻浮薄な英語ペラペラ「国際人」の量産に躍起になっているようにも見える。日本語教育など、外国人のためのもので、日本人には必要ないかのごとくである。日本のことをろくに知らずに「おフランス」に留学してくる日本人学生は後を絶たない。己の日本語のお粗末さや自国についての知識の貧しさを恥じることもない。気楽なものである。これも我が日本国の優れた学校教育の「賜物」であろう。Vive le Japon !