内的自己対話-川の畔のささめごと

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芸術家の「血球の祕密」― 福田拓也『小林秀雄 骨と死骸の歌 ― ボードレールの詩を巡って』

2016-01-24 18:34:18 | 読游摘録

 昨年三月のアルザスでのシンポジウムで初めてご一緒する機会があった詩人で東洋大学教授の福田拓也氏から最近著『小林秀雄 骨と死骸の歌 ―ボードレールの詩を巡って』(水声社)をご恵送いただいた。昨年十二月後半に私の勤務大学宛に送ってくださったのだが、ちょうど私が日本に一時帰国するのと入れ違いになってしまい、実際に手にしたのは今月こちらに帰って来てからのことだった。
 他の批評家による小林秀雄論を読んだこともなく、しかもまだ本書を読み始めたばかりなのに、こんなことを言うのは軽率の謗りを免れがたいかも知れないが、これは氏以外の誰によっても成し得ない画期的な小林秀雄論であると思う。
 小林秀雄の批評活動の展開について既存の小林論がしばしば踏襲している三段階説に、小林の批評の全体像を概観し把握するのに一定の有効性と説得力を認めながら、氏は次のような独創的な着眼点を提示する(15頁)。

 しかし小林のテキストを読んで行くと、このように三段階の移行として理解された展開には還元されないような何かがあることに気付かされざるを得ない。より具体的に言えば、このように理解された展開の図式をそこここで食い破るようにして、ある禍々しい一連の形象が顔を覗かせるのを見ることが出来る。「自意識」による批評から社会的・具体的細部を考慮した「本格的」批評、そして日本の古典作品を対象とする批評への三段階の移行として現れる批評の展開の裏に、様々に変奏されながら増殖する一連の骨や死骸の形象から成るある不気味な血脈が枝分かれし網の目を形成しつつ、最初期の「蛸の自殺」からドストエフスキーの「死骸」、中原中也の骨、南京「戰跡」の骨、そして戦後の「死體寫眞」との遭遇を経て最晩年の『本居宣長』に至るまで、見え隠れするようにして貫いている。そして、骨や死骸の代替的形象の連鎖と網の目を組織しつつ隠然たる力を絶えず発揮しつづけることになるのがボードレール的「死骸」の形象なのである。

 小林の初期批評の最高峰と福田氏が見なす昭和二年の「『悪の華』一面」の或る一節を出発点として、小林自身のテキストと小林が引用しているテキストとを実に丹念に辿り直しながら、「一連の骨や死骸の形象から成るある不気味な血脈」を徐々に浮かび上がらせていく手際は、詩人としての直観と批評家としての洞察に裏付けられ、スリリングでさえある。
 「『悪の華』一面」には、『悪の華』の中の次の一行が仏語原文のまま引用されている。

Comme après un cadavre un chœur de vermisseaux,

 小林は、ただこの一行を原文のまま引用するだけでその翻訳も付けていないばかりか、このテキストのみならず他のテキストでもこの詩行に言及することさえない。福田氏は、この一行に「小林秀雄の「血球の祕密」」を見る。
 そして、この「死屍を追ふ蛆蟲の群」(上掲詩行の鈴木信太郎訳)という形象を中心にして、福田氏の小林秀雄読解は試みられて行く。