なぜ、塚本邦雄は、『王朝百首』の中に、『百人一首』にはまったく出てこない「はかなし」あるいは「はかなさ」という語を含む歌を八首も選んだのであろうか。
この問題を考える一つの手掛かりとして、『百人一首』で使われている十六の形容詞のうち、「はかなし」と何らかの点で類縁性のある形容詞を挙げてみよう。「かなし」(三首)「憂し」(四首)「さびし」(三首)「つれなし」(二首)「惜し」(四首)「うらめし」(二首)「かひなし」(一首)等がそれに当たる。
まず、気づくことは、際立って頻繁に登場する形容詞はないということである。次に、人間関係上の不安や不在や不安定さによって引き起こされる感情を表現、あるいは心理状態を記述している形容詞が多いということである。
これに対して、『王朝百首』撰歌百首中には、全部で十九の形容詞を数えることができるが、「はかなし」以外に三首以上に用いられている形容詞は、ちょうど三首の「なし」一つだけ。
『百人一首』と『王朝百首』とに共通して現れる形容詞は、「かなし」「憂し」「こひし」「かひなし」の四つだけ。
『王朝百首』撰歌中の「はかなし」の頻出は、単に塚本の美学的嗜好と詩的感性との特異性を示しているだけなのであろうか。私はそうではないと考える。それは、「はかなし」という言葉が、単に王朝期の特に女流文学における基礎的感情を表す言葉であるばかりでなく、人間存在の基底的感情の最も端的な表現の一つとして、現代において果敢に前衛的な詩的実験を実践してきた詩人の鋭敏な耳によって数万首の王朝詩歌の中から聴き分けられた結果なのであろうと考える。
では、その「はかなし」によって表現されている感情あるいは経験とは、どのようなものなのであろうか。
明日から、『王朝百首』に擇ばれた百首中「はかなし」「はかなく」「はかなさ」をそれぞれに用いた八首を一首ずつ読んでいくことによって、この問いに少しずつ答えていきたい。
この試みは、2014年11月25日の記事と2015年2月24日の記事とで取り上げた問題をさらに展開するという意図に動機づけられてもいる。