内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

覚えたら思い出そうとするな ― 学生たちへのメッセージ

2016-01-28 21:46:56 | 講義の余白から

 今日の修士の演習では、なぜ発表の際に原稿を読み上げるだけではいけないのかを学生たちに理解してもらうために、かなり厳しい口調で、以下のようなことを述べた。

 出来上がった原稿をただ読み上げるだけの発表など、発表の名に値しない。アナウンサーがニュースを読むのとはわけが違う。それだけのことなら、その完成原稿を読み手に渡して、「読んでください」と言えばよいではないか。それをわざわざ声に出して読むなど、時間の無駄でしかないではないか。相手に予め読んでおいてもらって、即座に議論に入ればいいだろう。
 聞き手には何の予備知識もないとき、ただ一方的に書き言葉で書かれた文章を読み上げられて、どれだけのことが相手に伝わるだろうか。逆に、相手がすでにこちらの考えをよく知っているのならば、発表するまでもないであろう。原稿を読むのではなく、目の前にいる聞き手に対して語りかけ、相手の反応を読みながら、それに応じてその場で臨機応変に対処できてはじめて、口頭発表する意味がある。発表は儀式ではない。
 原稿を準備してはいけないと言っているのではない。よほど扱うテーマを熟知していて、しかも発表の仕方に熟練しているのでもなければ、完成原稿あるいは草稿、少なくともメモは用意するべきでさえあるだろう。特に、時間がはっきりと限られているときは、それを守るのがルールというものだ。そのために原稿やメモは大いに役に立つ。
 しかし、目の前に聞き手がいるのに、そちらを見ずに、原稿に目を落としたままの発表者の話は説得的ではありえない。もちろん、そういう意味で発表下手な人の言っていることに中身はないとは限らない。そういう人たちの中にも本人の専門とする分野ですぐれた力量をもった人たちがいることを私は否定しない。
 しかし、口頭でのやりとりを何か仮初のものでしかないと見なし、口頭表現技術を学んでそれを磨こうと努力しないのは、知的かつ倫理的怠慢であると私は考える。こういう怠惰が蔓延するのは、仲間内でしか話さない人たちの間でのことだ。丸山眞男がいうところの「他者感覚」のない人たちの「サークル」の横行は何も日本に限った話ではない。
 もちろん不慣れな日本語での発表というハンディは認める。しかし、それに甘えるな。自分の考えを説得的に伝えるにはどう工夫したらよいか真剣に考えよ。それは単に単位取得のためではない。少し大げさに言えば、これからの君たちの長い人生のためなのだ。
 自分の用意した原稿を繰り返し読め。できるだけ速く覚えようと無理せず、繰り返し声に出して読め。いつのまにか覚えてしまうまで繰り返し読め。そして発表当日は覚えたことを思い出そうとするな。そうしてはじめて、自分の言いたいことが、もしそれが本当にあるのならば、自分の内から沸き起って来るはずだ。それが原稿通りである必要はまったくない。間違えたっていい。言い淀んだっていい。相手に向かって言葉を発せ。そこに自ずと議論の空間が開かれることだろう。

 特別なことを話したわけではない。この通りに学生たちに話したわけでもない。付け加えたこともある。しかし、言いたかったことの核心は上記の通りであった。