内的自己対話-川の畔のささめごと

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「はかなし」攷(三)―「あはれ世の中」あるいは淡きニヒリズムの階調

2016-01-15 04:21:48 | 読游摘録


はかなさをほかにもいはじさくらばな咲きては散りぬあはれ世の中

 『王朝百首』中、「はかなし」あるいは「はかなさ」を初句に据えた歌が四首あるが、「はかなさ」で始まる歌は二首、その第一首目が上掲の藤原實定の歌である。『新古今和歌集』巻第二春歌下に見える。實定の『新古今』入首歌は上掲歌も含めて十六首。
 この平安時代末期の歌人に対する塚本邦雄の評価は、しかし、けっして高いわけではない。実際、上掲歌にも他の歌人に類似の発想が見られる。「桜花咲きては散りぬ」は、同時代の『殷富門院大輔集』中の「春の花咲きては散りぬ」と同工であり、「あはれ世の中」には蝉丸の先例がある。家集『林下集』を見ても、「秀歌には乏しい」(四〇頁)。『百人一首』に定家好みの代表作として採られた「ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただありあけの月ぞ残れる」にいたっては、「論外」と切り捨てられる(同頁)。鑑賞文中に引用されている、實定なりに心を盡くして春の花のあはれを詠った四首についても、「あまりに淡淡しく胸に沁むものがない」と否定的。
 にもかかわらず、『新古今』春歌下の中、前後に並ぶ落花の歌の間にさりげなく置かれた上掲歌には、「獨特のうつくしさがあり、一種ひややかな光を放つてゐる」と評価する(同頁)。この歌の内容は、空海作のいろは歌に近く、『平家物語』の冒頭の無常観にも通ずるとし、「その無常観が決してことわりがましく表に出てゐないのがこの歌の第一の手柄であり、「あはれ世の中」なる溜息のやうな結句がまことに初句の「はかなさ」とかなしくひびきあふ」というところに、塚本によるこの歌の評価の焦点がある。
 その内容においてこの世を無常と観じつつ、理に落ちず、歌としての階調の美しさをよく保っていることを塚本は高く評価しているのである。世の中の虚しさをそれとして引き受けつつ、言葉によってそれを虚空に美しく描き出し響かせることに歌人の本来の面目を見ているのであろう。
 このような評価基準は、不意の二句切の絶妙なひびきを賞賛して、「心理のあやふさと律調の快い躊躇が渾然と和している。一首がいささかも理に落ちず却つて淡いニヒリズムを漂わせるのもこの技法のたまものだらう」というところにも働いている(四十一頁)。