『千載集』所収の待賢門院堀河の一首。我が身の儚さを秋の景物に重ねて嘆く歌は多いが、この歌はその逆で、はかなさを我が身の上になぞらえて捉えようとする。そして、「袂にかかる」とさらにズームを効かせ、焦点を絞り、その後に涙が来るかと思わせておいて、しかし、結句に秋の夕べの露という景物を持って来ることで、その暗示的効果によって、我が身の儚さを涙とともに自然の中に浸透させ、景情一致の儚さの景色を立ち現われさせる。塚本邦雄は、「一首の調べはそのまま露をまとつて立つ一莖の秋草を思わせる」とこの一首を評する(二一四頁)。
塚本は、上掲歌の「秋の夕露」の心をさらにつきつめた作品として、次の一首を引いている。
それとなき夕べの雲にまじりなばあはれ誰かは分きて眺めむ
自分が荼毘に付されて野辺の煙となって夕べの雲にまじって空に立ち上れば、いったいだれがそれを私と見分けてくれようか。「はかなし」と言葉にすることなく、〈はかなさ〉を詠った、「堀河の絶唱」と塚本は評価する。