Alain Corbin, Histoire du silence. De la Renaissance à nos jours, Albin Michel, 2016(邦訳はアラン・コルバン『静寂と沈黙の歴史 ルネッサンスから現代まで』藤原書店 2018年)については、2017年2月1日の記事で一度取り上げたことがある。一昨年には、 Flammarion 社の « Champs » 叢書の一冊としても出版され、より安価に入手できるようになった。
今日、ちょっと調べたいことがあって本書を読み返していた。第六章「沈黙の言葉」(La parole du silence)に引用されているメルロ=ポンティの言葉の出典を確認するために後注を見た。Signes からの引用とあるのだが、これが Nina Nazarova (textes réunis par), Le Silence en littérature. De Mauriac à Houellebecq, L’Harmattan, 2013 の Introduction からの孫引きなのである。
Le langage, écrit Merleau-Ponty, « ne vit que du silence : tout ce que nous jetons aux autres a germé dans ce grand pays muet qui ne nous quitte pas » (op. cit., Albin Michel, p. 109).
コルバン書の本文はこうなっている。ところが、この引用箇所は Signes にはない。この文は、Le visible et l’invisible, Gallimard, 1964 の167頁にある。引用元の Nazarova の本では、当該引用箇所の注に Signes. Paris, Gallimard, 1960, p. 167 とある。つまり、引用元の誤りがコルバンの本にそのまま引き継がれてしまっているのである。ただし、引用元では、書名と出版年は間違っているが、頁は合っている。もっと細かく重箱の隅をつつくと、引用元の本は、メルロ=ポンティの本文の「 ;」を正しく引用しているが、コルバンの本ではそれが「:」に置き換えられている。この孫引きの直後の文は « Soyons plus précis » となっていて洒落が効いている。さすがである。
このような嫌味なやり方で瑕瑾を穿り出して、悦に入っているのではない。実は、この出典確認作業のおかげで、今月末の研究発表の内容にさらに一展開を加えるためのヒントがいただけたのである。
Le visible et l’invisible の上掲の引用箇所の直後の一文はこうなっている。
Mais, parce qu’ayant éprouvé en lui-même le besoin de parler, la naissance de la parole comme une bulle au fond de son expérience muette, le philosophe sait mieux que personne que le vécu est du vécu-parlé, que, né à cette profondeur, le langage n’est pas un masque sur l’Être, mais, si l’on sait le ressaisir avec toutes ses racines et toute sa frondaison, le plus valable témoin de l’Être, qu’il n’interrompt pas une immédiation sans lui parfaite, que la vision même, la pensée même sont, a-t-on dit, « structurées comme un langage », sont articulation avant la lettre, apparition de quelque chose là où il n’y avait rien ou autre chose.
p. 167-168.
ここを読んで、はたと気づいた。この文の中の le langage を l’ombre に置き換えれば、谷崎の『陰翳礼讃』における陰翳の説明として使えるばかりでなく、陰翳とは〈存在〉の言語であるというテーゼがここを手がかりに展開できるのではないか、と。
こう言うとコルバン先生は嫌な顔をされるかもしれないけれど、孫引きの出典表示の誤りがもたらしてくれたこの思いがけぬ贈り物を私はとても喜んでいる。