今日の記事の表題をご覧になって、「?」と思われた方もいらっしゃるかと思う。私自身、「えっ?」と思ったことがこの表題のきっかけである。現在の元号「令和」の提案者である中西進氏(ご本人は明言を避けているようですが)の『万葉集原論』の講談社学術文庫版(2020年 原本 桜楓社 1976年)のまえがきを読んでいたら、メルロ=ポンティの名前が出て来て、ちょっと驚いたのである。原本出版当時の心境と時代状況を現在から振り返っている著者の言葉を引こう。
まさにそのころ大学は、七〇年安保で大揺れに揺れ、それでいてまるで悪夢ででもあったかのように事は平静化していった。
学問が問われつづけた時だったのである。
私はその戦列に加わることも、甚だしい被害を蒙ることもなかったが、大きな空洞を体に感じてフランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティに救いを求めていたりしていた。
年齢的にも三十代の末から不惑にさしかかる時期であった。現職を辞めて中国文学専攻の大学院に再入学して、当時の職場に辞職を申し出たこともあった。根源を問わざるをえなかったのである。
しかし何事もなかったかのように世の中は収まり、わたしの空洞を見守っていて下さったかのように七六年三月、恩師久松潜一先生も世を去られた。お送りした二日後に、原本の「後記」を書いた。そして戦塵の後の空洞は、みごとに静かであった。
『万葉集原論』はそんな傷痍を、十分背負っていた。
いや、こんな傷痍を読者に見せたいわけではない。しかし空洞の中からなお古典に縋り、古典の本質を見つめて心の糧にしようとしていた著者の意は汲んでほしい。
まえがきの末尾には「令和二年令月」とある。この「令月」はここでは二月のことだが、萬葉集巻第五・八一五右序文「于時、初春令月、気淑風和」(時に、令月、気淑しく風和らぐ)では、「初春のよき月」を意味し、現在の元号の「令和」がここから取られた二字からなることは周知の通り。もともとは、「めでたい月。すべて物事を行なうのによい月」(『日本国語大辞典』)の意で、『和漢朗詠集』には「嘉辰令月歓無極」(「嘉辰令月歓び極まり無し」)とある。『源平盛衰記』にも同一の表現が見られる。
さて、単純に本書における名前の引用頻度だけからいうと、メルロ=ポンティ(13箇所)よりフッサール(31箇所)のほうが多く、かつ同じ文脈で両者に言及されていることが多い。それらの箇所では、当時日本でも盛んに研究され、専門家たちのサークルを越えて関心をもたれていた現象学に中西氏も強い関心を持っており、特に主客二元論の克服と「直観」「反省」という方法に注目していたことがわかる。しかし、当該論文執筆時から半世紀以上たった今、なぜ中西氏が特にメルロ=ポンティの名を挙げ、そこに救いを求めていたと記したのか。その理由を明日の記事から本文に即してもう少し丁寧に探ってみたい。