フランス語の silence には大きく分けて三つの意味がある。
一つは、雑音或いは騒音がないこと、つまり静寂の意である。一つは、何かについて話さないこと、つまり、あることについて沈黙を守る意である。一つは、しゃべるのを止めること、つまり静粛の意である。
第一の意味は、単に無音ということではなく、その場とそこに居る人(たち)を乱す音がないということであり、場合によっては、何かの音あるいは声を聴くために必要とされる静けさのことでもある。状態としての silence である。この意味では「沈黙」という言葉は使いにくい。
第二の意味は、秘密を守るために、余計な憶測を生じさせないために、誰かを守るために、暗黙の承認・了解を表すために、あるいは拒絶の意志を表示するためなどに口を閉ざすことである。態度としての沈黙である。
第三の意味は、文字通り声を出すことをやめることである。自らそうすることもあれば、人にそれを要求することもあるし、人からそれを要求されることもある。行為としての沈黙である。
もちろん、この語のすべての用法がこれら三つの意味に還元されるわけではないし、ある silence が複数の意味を持つこともある。
哲学は、この三つの意味での silence をその成立の必要条件とする。とはいえ、つねに静寂の中で声を出さず沈黙を守っているだけでは哲学にはならないことも言うまでもない。沈黙がおのずと哲学を生み出してくれるわけでもない。この三つの意味での silence を適切に用いることが哲学するためには必要である。
しかし、この上掲三つの意味とは別に、次元の異なった二つの沈黙をさらに区別することが哲学的思考には求められる。
その一つは内言語の次元である。書くことも声に出すこともなく黙考しているときであっても、私たちは通常母語で考えている。他の言語で、あるいは複数の言語間を行き来しながら考えることもありうるが、それらの個別言語を超えた普遍言語で考えているわけでない。しかし、西洋哲学史においては、プラトンからオッカムまで、あらゆる自然言語から区別された普遍的な思考そのものという理想言語の探究の系譜があった。この系譜を辿ったのが Claude Panaccio, Le discours intérieur. De Platon à Guillaume d’Ockham, Éditions du Seuil, 1999 である。
この問題の系譜とは別に、言葉の生誕地としての根源的な沈黙について考えたのがメルロ=ポンティである。メルロ=ポンティは「間接的言語と沈黙の声」『見えるものと見えないもの』その他の著作で何度もこの沈黙について考察している。
これとはまた別に、神の声を聴くために、それを聞こえなくしている自らの賢しらな考えや言辞を心から追い払うことを説くキリスト教的言説は数多い。この点については、昨日の記事で紹介した Jean-Louis Chrétien, L’espace intérieur, Les Éditions de Minuit, coll. « Paradoxe », 2014 がよき案内役になる。
沈黙について読むべき他の文献として、マックス・ピカート『沈黙の世界』(みすず書房 新装版 2014年 初版1964年)は、やはり挙げないわけにはいかないだろう。原書のドイツ語版の初版は1948年、仏訳はPUFから1954年に刊行されている。長らく入手困難だったが、昨年 La Baconnière という出版社から新装版が出た。拙ブログの三日前に紹介したアラン・コルバンの『静寂と沈黙の歴史』には、『沈黙の世界』が十数箇所に引用されていて、コルバンが同書でもっとも頻繁に参照している著作である。おそらくそのことと『沈黙の世界』新装版の出版とは無関係ではないだろう。