『万葉集原論』の中でメルロ=ポンティに言及している論文は三つある。そのうちの二つは、第一部「万葉集研究の方法」中の第一論文「文学史の方法―その「歴史」について」と第二論文「文学研究の方法」である。それぞれ文学史の可能性についての原理的な反省と文学研究の方法基礎論とが問題とされる場面でメルロ=ポンティへの言及が見られる。
しかし、いずれの言及箇所にもメルロ=ポンティの著作からの直接の引用はない。論文執筆当時(1969年)に雑誌『展望』(7月号)に発表された丸山静の「人間の科学をもとめて」が参照されている。また、上掲二論文には、西郷信綱の名前が当代の最も優れた文学史家の一人として頻繁に援用されている。この西郷信綱が『古事記の世界』(岩波新書 1967年)の「あとがき」で同書執筆にあたって深く学ぶところがあった三つ源泉の一つとしてメルロ=ポンティの『知覚の現象学』を挙げていること(この点については2019年1月15日の記事「1960年代に現象学が日本古典研究に与えた衝撃の証言」を参照されたし)が、中西氏に刺激を与えていることは間違いない。
『知覚の現象学』の邦訳は、その上巻がみすず書房から1967年に刊行されている。前年1966年には『眼と精神』が刊行されており、同書には、「人間の科学と現象学」「幼児の対人関係」「哲学をたたえて」も併録されている。『知覚の現象学』を氏が直接参照したかどうかはわからないが、『眼と精神』は、第三部「万葉集の表現」中の論文「古代的知覚 ―「見る」をめぐって」で邦訳が直接参照されている。この第三の論文は明日の記事で取り上げる。
上掲二論文からわかることは、中西氏がフッサールとメルロ=ポンティの現象学に、生ける現在と生きられる世界の経験に根ざした人文科学としての文学史及び文学研究の理論的基礎づけの手がかりを探っていることである。その他にも、西洋の哲学者たち(ディルタイ、ハイデッガー、レーヴィット、ギュスドルフ、デリダなど)への参照が多数見られるが、これら万葉集とはまったく関係のない西洋の哲学者たちの所説の博捜ぶりに驚かされるとともに、60年代末から70年代初頭にかけての氏の学問的苦悩がそこからひしひしと感じられる。
その苦悩を氏は原本である桜楓社版(1976年)の後記で、「近年私を悩ませて来た」「低迷」として、次のように叙述している。
この数年、私は『万葉集』とは何かという厄介な問題に捉えられて来た。自ら好んで選んだ問題ではない。そうならざるを得なかったのである。『万葉集』には、きわめて困難な個別的問題も多い。しかし、それを考えていくと、もっとも根底の『万葉集』の理解が、いかにあるべきかに、つき当たってしまう。そしてこの問題は、事をどう理解してゆくかという、研究の手続きと不可分になる。この、文学史における『万葉集』の位置づけと研究方法との二者をさけて、いかに個別的な疑問に解答を与えてみても、それは砂上の楼閣にすぎないかもしれない。いや、積極的に、無意味だというべきだろうか。
氏の豊穣な万葉研究は、このような学問の基礎づけに関わる深い煩悶を通じて生み出されていったのであり、同じく桜楓社版後記には、「おそらく、私は「万葉集原論」を生涯の課題としていくことだろう」と記されている。