内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「美学」(esthétique)について考えていたら、深い森に迷い込んでしまった

2020-06-23 23:59:59 | 哲学

 今週土曜日にZOOMを使って行なう、谷崎の『陰翳礼讃』とメルロ=ポンティの『眼と精神』との交叉的読解の試みについての研究発表の準備は、いつものごとく、遅々として進まない。
 いや、そう言っては正確ではない。もう言いたいことは定まっている。時間的制約からして、その言いたいことを全部言うこともできない。だから、すでにできている日本語の原稿を削ってフランス語で発表すればいい。パワーポイントについても同じことだ。
 では、なぜ進まないか。発表では触れるつもりはないが、それに「奥行」を与えるために、美学という概念について考えはじめたら、深い森に迷い込んでしまったからである。数日間彷徨っていて、まだ出口が見つからない。
 『陰翳礼讃』について、「日本の伝統的な美学」(« l’esthétique traditionnelle japonaise »)を見事に表現した作品といった評価が過去によくされてきた(今でも見かけることがある)が、これは額面通りには受け取れない。「伝統的」というのが実に曖昧な言い方であることは、この問題については今年の一月十一日からの七回の連載の最終回の結論部ですでに触れているから、ここでは措く。
 「美学(esthétique)」というのは実に便利かつやっかいな言葉だ。「〇〇の美学」という表現はいたるところで見かける。例えば、「男の美学」とか、雑誌の特集記事で見かけたりする。フランス語のエスティックも定義は容易ではない。
 この厄介さはどこから来るのか。「美しさ」に関する言説や趣味や態度について「美学」という言葉が広く使われていることがその理由の一つだ。学問の一分野としての美学に話を限れば、一応考察対象が絞れたかに思われるが、これもそれほど自明なことではない。美の概念の定義についてどれが正解かなんて簡単には言えない。
 美学という学問分野に限定されない美についての様々な考察も「美学的考察」と呼ばれたりする。バウムガルテンの『美学』出版以降の十八世紀後半からの美についての哲学的言説になら、「美学的」という限定を与えることは、少なくともアナクロニズムではない。しかし、プラトンやプロティノスやトマス・アクィナスにおける美の考察について、それを美学的考察と呼ぶことには問題がある。近代的概念を古代・中世の哲学・神学に当てはめようとするアナクロニズムに陥ってしまいかねないからだ。
 「美学」という言葉を、いわゆる日本的美に関する言説に適用することは、また別の問題だ。日本の美しさ或いは美しいものについての多かれ少なかれまとまった言説すべてを「美学的」と形容したところで、なにがわかったことにもならない。
 まず、「美学」という言葉の使用を自らに禁ずることによってしか、美の経験に関わる諸問題には近づけないということだけが今の私には確からしい。