英語のキャパシティ(capacity)に対応するフランス語は capacité だが、どちらも同じラテン語 capacitas をその語源としており、もともとの意味は「受け入れることができる」ことである。十四世紀初めにこの意味で使われ始めている。この意味で今日でも普通に使われている例として、ある学科・学部の定員、部屋の収容可能人数、あるいはコンピューターのメモリの容量を挙げることができる。語史的には、「(何かをする)能力」という意味でこの語が使われるようになるのは、最初の意味にやや遅れて十四世紀半ば以降のことである。
ジャン=ルイ・クレティアン(Jean-Louis Chrétien)が L’espace intérieur (Les Éditions de Minuit, 2014) でアビラのテレサ(Thérèse d’Avila)の『内なる城』(Le Château intérieur)について論じている箇所に次のような一節がある。
Dans le Château intérieur, c’est aussi au début (I, 2, 8) qu’elle appelle à « toujours considérer les choses de l’âme dans leur plénitude, largeur et grandeur », car l’âme est « capable de beaucoup plus que nous ne pouvons apercevoir » – capable, capaz, terme augustinien fondamental, dont, encore une fois, il faut rappeler le sens « passif » de contenance ou de réceptivité, le sens actif étant plus tardif dans l’histoire de la langue (p. 221).
ここでクレティアンが注意を促しているのは、スペイン語原文での capaz (フランス語の capable に対応する)を「受動的な」意味で受け取らなくてはならないということである。霊魂は、私たちが想像できる以上に、何かを「することができる」のではなくて、「受け入れられる」ものだというのがアビラのテレサが言いたいことなのだと強調している。つまり、霊魂の能力ではなく、その受容性がここでの問題なのである。
この文脈では、能力と受容性は対立している。なぜなら、能力を発揮することが、かえって受容性を十全に開くことを妨げてしまうからである。能力を黙らせることによってはじめて、本来的に黙せるものである受容性が霊魂のうちに開かれる。
これは単にキリスト教世界内の神秘主義の一派における経験に関わる問題にとどまるのではなく、より普遍的な精神史的問題であると思う。