内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西田哲学の「息遣い」を伝える「地を這う」ような訓詁注釈の必要性

2020-06-12 10:52:43 | 哲学

 昨日紹介した小林敏明編『近代日本思想選 西田幾多郎』(ちくま学芸文庫 2020年)に収録されている七編の論文のうち、最初の著作である『善の研究』第一編・第二編と講演がその基になっている「日本文化の問題」とは、西田哲学に馴染んでない人であっても、西田の所説に賛成するか反対するかは別として、予備知識なしでも、まるで理解できないほど難解なテキストではない。
 その他の論文は、しかし、例えば哲学科で西洋哲学史を一通り学んだ学部生がいきなり読んでも、まったく歯が立たないと思う。優秀な大学院生であっても、西洋哲学一辺倒だと、理解を試みる以前に、奇怪にしか見えない文体を前にして拒絶反応が起こってしまうだろう。どんな哲学書であれ、初見ですらすら読めて、すっと理解できるようなものはないが、西田哲学固有の難しさについては、やはり「熟練者」の手引が必要だ。
 それこそ編者の小林さんがその最適任者なのだが、もし彼が各収録論文に詳細は注解を付けていったら、すでに六百頁近い文庫本が千頁に膨らみかねないから、これは非現実的な話だし、小林さんは、西田哲学についての著書・論文をすでに多数発表されているのだから、注解はそちらを見られたし、というところだろう。
 日本語で書かれた哲学書の中で、西田の諸著作・論文ほど本文に密着した詳細な注解を必要とするテキストもないのではないかと私は思っている。『善の研究』には、例えば、小坂国継の全注釈があるが、その他の著作・論文にはない。西田を論ずる論文・著作は数多あるが、それらの中には小林さんの著作をはじめとして、優れた研究・論考も少なくないが、古典に対する訓詁注釈的態度に徹して一論文の読解を試みたものがはたしてあるのだろうか。
 確かに、西田の論文には繰り返しが多いから、ある一つの論文に対してでさえ、一字一句忽せにせず全文読むことは、労多くして功少なし、と思われるかも知れない。しかし、私自身、博論作成過程で論文「論理と生命」の綿密な注解作業を行って、そこから得たものは実に大きかった。その作業を通じて、西田哲学の「息遣い」といったものが感じられるようになり、それ以後の読解がそれだけ容易になった。敢えて言わせていただくと、西田が「わかる」ようになった。
 訓詁注釈は、大所高所から著者の所説を論ずること、最初からある特定の解釈のみを優先させることを禁じ、その対象となる文章に密着し、その生きた肌理を緻密に辿ることからなる。そのような徹底した「地を這う」ような遅読を通じてはじめて見えて来るものがある。
 例えば、「なぜここは読点であって、句点ではないのか」「この文に主語がないのはなぜか」「この二つの動詞の組み合わせは何を意味しているのか」等、一文一文の読解を通じて思索の現場に忍耐強く立ち会い続けることで、そのテキストに込められた精神的エネルギーが読み手に伝導されるという経験が起こる。そのエネルギーによって生かされていると感じるときが私にはある。