今まで当然だったことがそうでなくなり、未だ新しい標準ができてはおらず、数ヶ月先のことさえ予測不可能になり、いつも状況の悪化に怯えながら生きるのは、誰にとっても容易いことではない。
不確定性の中にとどまり続けるのはしんどいから、まだよくわらない先のことについて今からもうさっさと決定し、少しでも先の見通しを明るくしたいと思う気持ちもわからなくはない。
特に大きい組織の場合、組織全体としての基本方針が決まらなければ、その組織の成員は、それぞれの部署での行動方針も決められない。
大学もそのような組織の一つだ。一昨日の学部評議会でのこの九月からの新学年の大学運営に関する、特に授業方式に関する基本方針の発表内容は、前回の五月後半の評議会での方針説明よりは明確になり、コロナウイルス対策に関する規定も若干だが緩和された。教室には、収容人数の上限の半分まで入れてもよいことになった。それ以前は三分の一だった。
このガイドラインを受けて、昨日は新学期からの学科の時間割編成に没頭した。一年生は優先的に教室での対面授業を中心に行うという大学の基本方針は、現状が維持されるのならば、語学の授業に関しては完全に実現できるように編成できた。一年生全員を同じ教室に集める授業は、約150人の学生を想定しなくてはならないが、300人以上収容できる階段教室の数はキャンパス全体で限られており、どの学科もそれらを使いたいわけであるから、昨年まで学科で確保してあった教室に追加することは困難であり、現時点では、全員一斉授業はオンラインしか方法がない。
だた、授業のタイプ・内容、教員の授業スタイルは一様ではなく、それぞれ希望するスタイルは違う。その選択は個々の教員に任せるつもりだ。いろいろ試してみて、利点・欠点がはっきりしてきたところで、状況の変化と先の見通しも考慮しつつ、教員間で話し合って調整を図り、よりよい方式を探るというプラグマティックな方針で行く。
もちろん、それが理想だと考えているのではない。しかし、決められないことは決められない。その都度の判断すべきことは、そうするしかない。それを無理やりに決めてしまい、変更を認めないのは論理的ではない。それは、精神の硬直化であり、知性の欠如でしかない。
予見不可能性を生きなければならない状況を嘆いてもしかたがない。それに、そもそも、それこそが人間にとってより本来的な実存的状況なのではないか。だとすれば、私たちはそれを「喜んで」引き受けるべきだろう。
予見不可能な世界を生きるためには何が必要だろうか。緻密な合理性に基づいた総合的判断力と判断中止する勇気と変化に即応する心身の柔軟性の三つは少なくとも欠かせないと思う。根拠薄弱な憶測に振り回されることなく、その都度確保可能な確実性を根拠として、想定されるリスクへの対策を準備しつつ、その都度の条件下で最善の判断を下すためには、これら三要素は不可欠だろう。
しかし、これらの三要素を備えているだけでは不十分なのだ。なぜなら、それらをないがしろにする権力者たちがいたるところにいるからだ。それらと戦うための戦略もまた私たちは必要としている。