『万葉集原論』所収の諸論文の中でメルロ=ポンティへの言及が見られる第三の論文は、昨日の記事でも一言触れたように、「古代的知覚 ―「見る」をめぐって」と題された論文で、本書第三部「万葉集の表現」の第三論文である。この論文の初出は『文学』昭和五十年四月であるから、昨日取り上げた二論文より五、六年後に執筆・発表されたものである。
そのタイトルから察せられるように、この論文は、全体として、古代世界における「見る」ことの権能をその考察対象としている。六節からなり、順に「うつせみ」「基本の視覚」「目の呪能」「見えるもの」「見る・ある・知る」「見ゆ」と見出しが付けられている。メルロ=ポンティへの言及が見られるのは第四節「見えるもの」と第五節「見る・ある・知る」との二節においてである。
第四節は、前節で確認された古代世界における「見る」ことの呪能を前提として、具体的な場面での「見る」という知覚の働きを万葉歌の中から例を挙げながら考察している。自説を述べた上で、先行研究の批判的考察を展開する中で、メルロ=ポンティの名が登場する。そこで考察対象となっているのは永藤靖氏の論文「記紀・万葉における「見る」ことについて」(岩波書店『文学』四一巻六号 一九七三年)である。
永藤論文の核心を「国見の「見る」は(中略)自然の霊力との出会いの行為であり、その祭式に他ならない」というテーゼにあると読解し、それはこの永藤論文の直前まで批判の俎上に載せられていた土橋寛の「魂の交流」「タマとタマの交渉」といった所論と同一だとみなす。この同一視の可否を問うことは、どちらの論文も読んでいない私にはできない。
この読解を前提として、中西氏は、永藤論文の裏づけ立証の過程には、三つの柱が用いられているように読みとれると言う。その三つの柱とは、宣長、メルロ=ポンティ、丸山眞男それぞれの論である。
宣長によれば、「見る」は、見るものを「身に受け入る」ことであり、単なる視覚の事実ではない。つまり、見ているものを我が身に引き受けることである。しかし、中西氏によれば、宣長は、「見る」ことをそう規定しただけであって、その「見るもの」が同時に「見えるもの」あるいは「見られるもの」として、見えるものの世界に降りていくと考えたわけではない。
それにもかかわらず永藤氏がそう考えたのは、メルロ=ポンティと宣長を結びつけたからではないかと中西氏は推測する。永藤論文にはメルロ=ポンティの明示的な言及はないから、中西氏自身、「思いすごしかもしれない」と断ってはいるが、この推測の根拠として、永藤氏が「世界内存在」ということばを用い、それを次のように言い換えることもできるとしていることに注目する。
「見る者」は同時に一方では「見えるもの」である。「見えるもの」はまた「見られているもの」でもある。
確かに、これを読むかぎり、永藤氏がメルロ=ポンティを参照しただろうと推測することは的外れではないと思われる。永藤氏が『眼と精神』を実際に読んだかどうかは措くとして、少なくとも、万葉集を対象とする国文学の論文にこのようにメルロ=ポンティ風の表現が出てくるほどに、メルロ=ポンティの晩年の存在論が当時の日本でよく取り沙汰されていたことの傍証だとは言えるだろう。
この引用に続いて、中西氏自身による『眼と精神』への明示的な言及があり、氏のメルロ=ポンティ理解が示される。その要点は、見るものは同時に見えるものでもあるというメルロ=ポンティの所論から、見るものは他の見るものによって見られるものだという帰結を直ちにもたらさないというところにある。
確かに『眼と精神』にはそのような所説は見られない。中西氏がなぜその点にこだわるかというと、見るもの同士の相互作用性とそれに基づく「魂の交流」は、古代精神にとっての「見る」においては、少なくとも第一義的なことではない、ということを主張したいからである。氏によれば、「「見る」がまず本来的な知覚であり、聖なる呪能さえ持ち、よって事と次第によっては「見る」ことで対者のタマを手に入れることですらあった」のである。