「美」といふことをめぐりて、日ぐらし、机にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこかはとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
私たちは、いつ、どのようにして美しいものを美しいものとして見ることができるようになるのだろう。それは学習できることなのだろうか。美は教えることができるのか。
感覚に快いか快くないか、これは赤ちゃんでもわかる。見ていて快いものが美の原初的体験なのだろうか。美の感受は快の感覚に還元されるのか。
何かを美しいと感じるとき、それが誤りだということはありうるであろうか。かつては美しいと感じていたものが、あるときからそう感じられなくなったというのは別の問題だ。なぜなら、美しいと感じたという事実は誤りではないからだ。
美しさを感じなさいと命令されても、そう感じられない。それは自ずと起こる感情だ。
なにかを美しいと感じるとき、その理由を私たちは説明できるだろうか。できたとして、それに意味はあるか。
センスが磨かれていき、知識が深まり、ある芸術の真髄に近づけば近づくほど、美しいと感じられる対象・事柄も変化するだろう。それは、美は快には還元できないということ意味しているのか。
感覚されうる美はすべて移ろいやすい。それは、感覚されうるのは美の表象(représentation)であって、美そのものではないからだろうか。しかし、美しいと感じるために美そのものの認識は必要ではない。
調和とバランスが美の感覚を与えることがある。しかし、そのことは美を調和とバランスに還元できるということを意味しない。
感覚では捉えられない、超感覚的な美はあるだろうか。例えば、数学者がある証明に感じる美しさは、少なくとも感覚だけでは捉えられない。しかし、知解の対象でしかない美はありうるだろうか。