坂部恵の『和辻哲郎 異文化共生の形』(岩波現代文庫 2000年 初版 岩波書店 1986年)第3章「風土としての空間」のはじめの方にバシュラールの『空間の詩学』(La poétique de l’espace, PUF, 1957)からのかなり長い引用がある。和辻の風土概念を読み解くための手がかりとして、『空間の詩学』の「生家 maison natale」の本質規定が援用されている。
Les vrais bien-être ont un passé. Tout un passé vient vivre, par le songe, dans une maison nouvelle. […] Et la rêverie s’approfondit au point qu’un domaine immémorial s’ouvre pour le rêveur du foyer au-delà de la plus ancienne mémoire (p. 25).
幸福であることは、すべてある過去をもつのだ。すべての過去が、夢想を通して、新しい家に住みにやって来る。[中略]夢想は、こうして、さらに、もっとも古い記憶をもこえて、家にあって夢みるものに太古の領域が開き示される地点にまで深められて行く。(坂部恵『和辻哲郎』89頁)
和辻の風土をバシュラールの「生家」に引きつけて読み、風土とは、「そこに生まれついたものにとって、太古以来の記憶の重層を帯び、みずからが大宇宙の一角に住みつくにあたって不可欠の媒介の役割をはたす一種の生家以外の何ものでもないのだ」と坂部恵は言い切る。
この断定をそのまま承認するとして、私に言えることは、私には、このような生家としての風土はない、ということである。単に生まれただけの場所が必ず生家になるなら苦労はない。生まれついた風土がいつもそこにあってくれるならば確かに安心だろう。しかし、今私たちが生きているのは風土喪失の時代ではないのか。太古の記憶へと遡る途は見失われているのではないのか。
仮にその途が再び見出されたとしても、太古の記憶の中に生きることはできない。それを夢想するだけで生きて行くこともできない。