今年度前期の修士一年の演習で和辻哲郎の『風土』を読んでいることは9月9日の記事で話題にした。優れた仏訳があるから、読解はさほど難渋することなしに進むのではないかと楽観していたが、これは完全に私の見込み違いであった。学生たちは和辻の風土の定義が理解できずにひどく困惑している。
そこで、彼らの理解の手助けになるような補助概念を導入してみようかと試みた。情緒がその一つである。ただ、情緒を概念とするのは適切ではなく、そうしてしまっては最初から逆に学生たちをつまずかせることになってしまう。森田真生が『数学する人生』の序で言っているように、情緒は、「概念ではなく実感であり、理解されるべきものである以上に、「体得」されなければならないもの」だからだ。
それに、和辻は、『風土』のなかで一度も「情緒」という言葉は使っていない。「感情」という言葉は八十箇所以上で使われているが、風土論にとって特に重要な理論的価値が与えられているわけではない。「情愛」という言葉は十七回使われているが、「情緒」と意味的には重ならない。「情が湧く」「情が移る」など、「情」が単独で使用されている例はない。
しかし、風土は無情ではない。むしろ情に満たされていると言ってもいいのではないかと思う。最晩年の大森荘蔵に倣って言えば、「天地有情」である。その局所的な表現が風土であると言えないだろうか。
『数学する人生』の「結 新しい時代の読者に宛てて」で、森田真生は、岡における「情と情緒」の思想を次のようにまとめている。
自他を超えて通い合う情を踏まえた上ではじめて、「個性」は成り立つというのが岡の考えだ。自他切り離された個体の中に閉じ込められた別々の心が最初からあるのではない。自他に通底する情がまずあり、それが森羅万象においてそれぞれの色どりとともに現われる。その「情の色どりが情緒」なのだと岡は言う。
自他を超えた情を踏まえた上で個に着目するとき、そこに立ち現われるのが「情緒」の世界だ。情緒とは情の局所的な様相のことである。
この文章の「情緒」のところに「風土」を代入してみることで、和辻の風土論に新しい光を当てることができるのではないかと私は考えている。