昨日の記事で引用した新海誠の言葉の中で特に重要だと私に思われるのは、彼が情緒の例として夜景の映像による描写を選んでいることである。しかもそこに音楽をかぶせると言っている。つまり、音楽(あるいは音響効果)と相俟ってスクリーン上に描写される映像としての風景が情緒を喚起するということである。
新海誠によれば、情緒とは、感情の一種であり、「人の営みがかもしだす感情」だと限定される。しかし、この感情は私たちが日々それぞれに感じ表現するいわゆる感情とは違う。つねに変化してやまない感情とも違う。窓の灯りの明滅ひとつで喚起され得るものであるということは、情緒は風景として表現されうるものであり、映像ではない現実の世界であっても、ある風景が情緒を表現している、いや、情緒そのものだということもありうる。
情緒は、内面と外界とを対立させる考え方とは馴染まない。情緒は、風景に瀰漫するもの、あるいは浸潤しているものである。そのとき、その風景そのものが私たちの心なのだ。「下町情緒」と言うとき、それはその街の風景を対象化してその特徴を言おうとしているのではなく、その風景の中に自分も心地よく浸っている状態を表現している。情緒はそこにおいて生きられていると言ってもよい。
私たちがある出来事に際会して心を揺すぶられ、ある感情が抑えようもなく沸き起こるとき、それが喜びであれ、悲しみであれ、怒りであれ、それらは情緒とは呼ばれない。情緒は、それを分割したり、分析したり、何か他のものに還元したりすることができないなにものかである。
感情は私たちの判断を誤らせる要因となりうるが、情緒にそれはない。悪感情はありうるが、悪い情緒というものはない。感情は理性的に抑制しうるが、情緒は理性の統御下にはない。情緒は、辞書的定義によく見られるような「さまざまな感情を含んだ複雑な感情」というよりも、諸感情の基底にあるより根源的な人間の存在様態のようなものだと言うべきではないだろうか。
主知主義に対立する思想傾向を情緒主義(emotionalism)と呼ぶことがあるが、これは emotion に「情緒」という訳語を充てたことからそう訳されているだけのことで、今ここで私たちが問題にしようとしている情緒とは異なる。情緒は、「情」という同じ漢字を共有する「情念」「情動」「情感」「情意」などの諸概念とも異なる。
「情緒」という語の語源を探っても、情緒とは何かという問いへの答えは見出だせそうにない。むしろ、私たちが現に生きている世界への現象学的アプローチの中に、この問への答えへと至る途があるように私には思われる。