今日の授業で、新海誠作品を読み解くためのキーワードの一つとして「情緒」という言葉を挙げた。直ちにある学生から「情緒ってなんですか」と質問があった。確かにこの語の定義は難しい。日本語でする授業だから日本語で答えたが、フランス語で説明したとしても、納得のいく解答を与えることは容易ではなかっただろう。
一つの概念を単独で定義してみても、仮に一定の定式化は可能であるとして、それでその概念が理解できたということにはならない。学生の質問に対しては、さしあたりの解答として、他の類義語との用法の差異を例示するだけにとどめ、「情緒とは何か」という問いそのものは開かれたままにしておいた。「風景と情緒」は、まさにこの講義の重要なテーマの一つであるから、解答を急ぐよりも、問い続ける姿勢を学生も私も持続させることのほうが現時点ではより大切なことだからである。
例えば、感情、心情、心理、気分などと情緒とは違う。情念、情動とも違う。ある町の風景について「情緒がある」とは言えるが、同じようなことを言うためにこれを上掲の他の語に置き換えることはできない。一方、「風情がある」はかなり近い。「かおりがする」も重なるところがある(ちなみに、どうでもよいことだが、平成生まれの小生意気なガキや小娘が「昭和のかおりがする」とか、わかったような顔してほざいているのを聞くと、私は殺意を覚えるのを抑えることができない)。「情緒不安定」とは言うが、上掲の他の語と「不安定」とは同じようには直接しない。サルトルの『情緒論粗描』の原題は Esquisse d’une théorie des émotions であるが、この émotion と情緒はまったく違うものだと言っていいだろう。
新海誠は『小説 言の葉の庭』の「あとがき」には、情緒についてとても示唆的な次のような一節がある。そこを学生たちに読ませて、情緒の意味を考え続けることを求めた。
たとえば「情緒」のようなもの。街の夜景の絵を描くとする。そこに、切なさを含んだ音楽をかぶせる。どのタイミングでも良いので、どこかの窓の光をひとつ灯す、あるいはふいに消す。それだけで、情緒としか呼びようのない感情を観客に抱かせることが、映像ならばできる。情緒とは要するに「人の営みがかもしだす感情」だから、窓の灯りひとつで、映像ならばそれを喚起させることができるのだ。
この一節を手がかりに、情緒についてしばらく考えてみよう。