「情緒」という言葉に込められた岡潔独特の思想を本当に深く摑むことは容易ではないが、岡が言うところの人の心の二つの根本要素として懐かしさと喜びということであれば、私たち誰しも、程度の差こそあれ、直に実感することができる。いや、私たちは、誰に教わることもなく、懐かしさにおいてすでに情緒を知っているはずなのだ。人は懐かしさという情緒の中に生まれると言ったほうがいいかもしれない。
その実感は、しかし、必ずしも「なつかしい」という語の今日における通常の用法と重なるわけではない。懐旧の情とか過去への憧憬としての「なつかしさ」は、万葉時代の古語「なつかし」の原義から遠く隔たった後世に派生してきた意味であり、現代日本語における「なつかしい」の用法は、この原義を覆い隠してしまいかねない。未来が暗く先行きの見えない不安で不確実な現代に生きる私たちは、人にとって本来的な情緒である「なつかし」を忘却しかけているのかもしれない。
昨年6月22日の記事で引用した『古典基礎語辞典』(角川学芸出版 2011年)の「なつかし」の項を再度引用しよう。
動詞ナツク(懐く)の形容詞化した語。ナツクは、近寄り、密着して、親しむの意で、ナツカシの原義は、なつきたい、目の前にある対象の身近に寄りたい、と思う気持ち。ナツカシの対象は、人・自然・物・動物など、広い。人については、男性・女性、また同性・異性を問わず用いる。離れていたり、過去の存在である人や物事についての親近感から、目前にあるゆかりの物になつき寄りたいと思う気持ちをいう用法を経て、後に、目前にない対象、離れていたり過去のことであったりするものが慕わしく思い出される気持ちをいうようになった。
つまり、一言で言えば、「なつかし」とは、「それが慕わしくて、いつまでもそれと一緒にいたい、あるいはそう感じる場所にいつまでも共にありたい」という情である。そういう情を懐かせるものが、人であっても、人の姿・声・仕草であっても、他の生き物のことであっても、自然の景物であってもよい。
現に「なつかしきもの」と共にあるとき、私たちは喜びを感じる。反対に、何か決定的に現世から失われたものに対してこの情を懐けば、私たちは胸を締めつけられるように感じるが、それは悲しみとは違う。想い出すことそのことにおいて、その想起されたものとの繋がり・結びつき・絆を現に実感しないわけにはいかないとき、私たちはやはり「なつかし」の情を生きている。